「………別に俺は、君をどうこうしようという気はない」 「え?」 呆けたように(我ながら間抜けな声だったと思う)そう返して、は立ち尽くした。 「上が勝手にいらない気を回したんだ。俺は間に合ってる。帰っていいぞ」 「な…!」 商売柄、とでも言うべきか。そう言われて、自分でも分かりやすくプライドが傷付いた。 「…プライドでも傷付けたか?」 そして分かりやすく表情に出していたらしい。図星を突かれ、はぐっと押し黙った。 「……だからと言って、慰みにお前を抱くようなことはしないぞ。余計に傷付けるだけだろうからな」 そこまで言って、その男は煙草に火を点けた。暗い部屋の中、浮かび上がる表情は気怠げだ。 「……あなた、名前は?」 ここまで見透かされては、興醒めも何もない。諦めて、彼の正面にあるソファにどさりと腰掛けた。 「…赤井秀一。」 一拍置いた間は、名乗るべきか悩んだのか、それとも偽名でも使おうとしたのか。どちらかはわからないが、なんとなくそれは彼の本名なのだろうと確信した。 (……なんて、何考えてるのかしらね) 心の中で苦笑する。…どうもこの男の前では、調子を狂わされてばかりだ。 は、doxy……平面的な言い方をするなら、娼婦だった。それも、ワケあり専門だ。表に出られない人間、公にそう言った場所へ赴けない人間。水準は様々なれど、そんな人間は山ほどいる。 そんな中でもトップの指名率を維持し続けるのに必要なのは、何をおいてもその聡明な頭脳だった。余計なことは聞かない。詮索しない。それでいて、聞き上手。聞いた話は、その場で忘れる。…どれも、本当の意味で「生き残る」のに必要なことだ。 ―――そう。名を聞く、など、有り得ない…あってはならないことなのに。 「。」 そう言えばまだ、こちらも名乗ってはいなかった。簡潔にそう告げると、赤井は「、か」と小さく復唱した。 「。上司に怒られるなら、そのベッドを使って一晩寝てから帰れ。俺は片付ける書類があるから、気にせず休め」 言うだけ言って、向けられていた視線が下がる。それを見届けてから、はゆっくりと室内を見回した。……殺風景な、生きるために最低限のものしか揃っていない部屋。 しばらくそれらを眺めてから、ふと思い立ち、は赤井の名を読んだ。 「…赤井、さん」 常なら、呼び掛けることはない。相手が希望することもあるが、そんなときは大抵下の名前だ。なんとなくくすぐったさを覚えながら、そう呼び掛ける。 「なんだ」 返事が返ってきたことに、まず驚いた。無視されるだろうと、そう踏んでいたのに。 「……赤井さんは、誰か大切な人がいるんでしょう。だからその人を裏切りたくないのよね」 今度は、無言だった。 それは無視したわけではなく、無言の拒絶。立ち入りの拒否だ。 「…優しいね……」 罵るわけでも、手を上げるわけでもない。 一番傷付かない方法で、それをに悟らせる。 この人に愛されているひとは、きっととても素敵な女性なのだろう。ほんの少し、羨ましいな、と思った。嫉妬なんて低俗な感情じゃない。ただカップルとして幸せであろうふたりが羨ましいと、そう感じたのだ。 それと同時に、 「あなたのことをもっと知りたい」 そう呟いたに、書類から目を上げた赤井は訝しげな表情を作った。 「…君は、聡明だと思っていたんだがな」 その言葉に、肩を竦めては言葉を続けた。 「そんな低俗な意味じゃないわよ。…ただ、優秀なdoxyにあるまじき思考であることは間違いないけど」 この男の持っている世界に、触れてみたい。 もっと言葉を、交わしてみたい。 “商売相手”に望むべきことではない、そんなことはわかっている。 それでも、強く惹かれてしまったのだ。こんな僅かな時間で、数えるほどしか言葉も交わしていないのに。 「あなたみたいな人は、人脈はいくらあっても困らないでしょう?」 「…俺の職業を、」 「知らないけど。ただの勘」 カマをかけたと思われたらたまらない。言葉を被せて、それを否定する。 「ほら、私優秀でしょう?だから、リピーターも多いの。…名乗らなくたって、だんだん素性は見えてくるから。表から裏まで、一通りいるわよ」 「……。それは、仕事相手として君を使えと、そういうことか?」 瞳に浮かぶ色で、すぐにわかった。 ……彼は、私がdoxyとして抱かれることを快く思っていない。心配してくれているのだ。 (…本当に、優しいひと。) けれど、私にとってはこれが仕事。 それなりに、プライドも持ってやっている。 「赤井さんが私を使おうが使うまいが、私は仕事をするから変わらないわよ。それに……ベッドの中でしか話さないようなことって、案外多いのよ?」 言って、ウィンク1つ。 呆れられるかな、と思ったが、そうではなかった。 「………わかった。」 が引かないことを悟ったのだろう。ゆっくりと、絞り出すようにそう呟いた。 ぱっ、と表情が明るくなったに、釘を指すように続ける。 「ただし、俺の職業には不干渉でいろ。君の身を守るためだ。欲しい情報は、こちらから提示する」 「ええ、わかったわ。…ありがとう、赤井さん」 彼の世界に、触れていられる。 doxyの自分でも、doxyだからこそ、彼の力になることができる。 「……今のヤマが片付いたら、その時には君を買おう。それが報酬だ」 「え……?」 doxyの自分を、買う? それはつまり、doxyとして、ということだろうか。 椅子から立ち上がり、不思議そうにしているのもとへとやってくると、赤井はぽん、との頭の上に手を置いた。 「……doxy、という職業そのものをだ。君には日の当たる場所の方が似合う。…君が、今の仕事に誇りを持っていることもわかっている。だからこそ情報屋として信用するんだ。……それでも」 くしゃ、と。 優しく撫でられ、…そんな優しい撫でられ方をしたことがなかったから、戸惑ってしまった。 「赤井さ、」 「……さぁ、最初の仕事だ」 ふ、と手が離れて、…それを残念だと、そう思ってしまった自分に驚いた。 「…ええ、今行くわ。」 ソファからゆっくりと立ち上がって、彼のもとへと歩み寄る。 ……これからは、心は常にここに置いていこう。 初めて惹き付けられた、この人のもとに置いていこう。 ……契約が切れるその日まで、私は。 貴男専属doxxxy ---------------------------------------------------------------- BACK |