忍 び 込 み





「……え、いない……?」
「そうなのよ。わざわざ来てくれたのにごめんなさいね」
申し訳なさそうに言ったの母の言葉に、快斗は眉をひそめた。…こんな時間に、どこへ?
「ああ、なんだか課題を学校に忘れてきちゃったとかで。明日提出だから今夜やらなきゃいけないんだって。学校には警備員さんがいるから大丈夫だよとは言ってたけど」
「…ありがとうございましたっ!」
そう言って、快斗はくるりと踵を返した。状況はつかめた。つかめたが、
(あの……バカがっ!!)
暗いところがだめなくせに、とびきりの怖がりのくせに。警備員なんか常駐しているわけではないし、そもそも夜の学校なんて公式に入れる場所ではない。母親に心配をかけまいとしてついた適当な嘘だろう。
目の前で赤に変わった信号に舌打ちをしながら、快斗はまだ遠い黒い影へ視線をやった。…夜の学校なんて、自分だって近付きたいものではない。
(…今、行くからな)
青になると同時に、快斗は強く地面を蹴って走り出した。





「…、っはぁ」
校舎の東側、右から2番目の鍵が壊れているのは生徒たちの間では有名な話だ。最も、だからといって使用する者などほとんどいない。日が高いうちは窓から出入りする必要なんてないし、夜の学校に好き好んで忍び込む人間もそうそういない。のように、やむをえない者がたまに使用しているだけの秘密の抜け道だ。
「よ、っと」
静かに窓を横に滑らせ、軽い身のこなしで乗り越える。いつもなら鍵開けからやらなければならないのに、今回は最初から開いていることが妙な感じだ。
窓の下に、のものと思しき靴がきちんと揃えられて置かれていた。足音を立てないようにと思ったのだろうか。律儀だな、と軽く微笑し、自分もその隣に同じく揃えて靴を置いた。見回りに気付かれないよう、消火器の脇にそのまま寄せておく。
(…っと、のんびりしてる場合じゃねー。早く行かねーと)
監視カメラなんて高級なシロモノは備わっちゃいないが、警備員が定時に見回りに来るくらいのことはする。さすがにその時間までは調べていないし、見つかっても厄介なだけなので快斗は足音を忍ばせて階段へ向かった。自分たちのクラスがある階へと静かに、だが素早く上りながら、快斗は思案をめぐらせた。考えまいとしたって、どうしても考えてしまう。
……)
オメーは、オレのことを、どう思ってるんだ?
新一の言葉を鵜呑みにするほど楽観主義者ではない。そうであったらいいなとは思うが、そうである保証などない。…期待をして、裏切られた時の衝撃は大きい。
(けど)
そうして自分が逃げたことで、を傷つけたというのは事実だ。自分が逃げることで傷つけてしまうくらいなら、真っ向から向かっていって自分が傷つくほうがよっぽどマシだ。…もう、逃げない。恐れない。
「……っはぁ、」
階段を上りきり、自分たちのクラスへと向かう。夜の学校と言うのは本当に不思議なもので、昼間とは全く別の顔を見せる。生徒がいるかいないか、それだけでこんなに変わるのかと思うと不思議な気もした。快斗はそれを「怖い」とは思わないが、見ようによっては相当怖い。だからこそ、学校には怪談がセットで付きまとうのだ。…そんな中に、は一人で。
(怖くないはずがないのに)
もしかしたら、今までだったら、行く前に自分に声を掛けてくれていたかもしれないと。そう考えるのは、自惚れだろうか。そしてその自惚れがもしも本当だったら、今のは快斗を頼りたくないということだ。いや、もしかしたら、話すことすら。そしてそこまで追い詰めたのは、他ならぬ自分だということに快斗は強い焦燥を覚えた。
教室が見える。ここに来るまでにとはすれ違っていないから、まだ教室内にいるはずだ。二つある入口のうち、後ろ側から教室の中へ入ろうとして。
「っ、」
…快斗は、呼びかけようとした声を、喉元まで出掛かっていた名前を、飲み込んだ。

夜の学校は、いつもと雰囲気が違う。
月光が差し込む教室も、いつもと雰囲気が違う。
そもそも教室とは、昼間、生徒たちが大勢いるのがあるべき光景であって、夜半に月明かりの差し込む教室などはあるべき光景ではなく、当然普段と雰囲気も違う。
その中で、窓辺の机に腰掛け、月を見上げている少女は。
…そのまま、光に溶けて消えてしまいそうなほど、儚い存在に見えた。

そのまま教室内へと入りかけ、足を止める。…いきなり後ろから肩を叩いたりしたら、を驚かせてしまう。どうしたものかと逡巡し、快斗は廊下から声を掛けることにした。近くで呼ぶよりはショックも少ないはずだ。

…ぴくりと、小さく肩が震える。それは唐突に呼ばれたことに対する驚きと言うより、自分の名を呼んだ人物に、つまり快斗に名を呼ばれたことそのものに驚いたという感じだった。

再び呼びかけ、ゆっくり歩を進める。は動かない。同じ姿勢で空を見上げ、振り返ることもしない。…その背が、自分を拒絶しているようで、快斗はぐ、と下唇をかんだ。…この事態を招いたのは自分なのに、ショックを受けたことが腹立たしかった。どこまで自分勝手なんだろう。

3度目の呼びかけは、真後ろから。そこで初めて、はゆっくりと振り向いた。
「…快斗、どうしたの。こんな時間に、何をしてるの」
まるで、自分がここにいることは当然だ、快斗のみイレギュラーだと言わんばかりだ。
「オメーこそ、どうしたんだ。夜の学校なんて、鬼門じゃねーのか」
「ん……」
再び視線を外し、窓の外の月を見上げる。蒼く、冴え冴えと輝く月を。
「数学の宿題、取りに来たんだけどね、あんまりにも月が綺麗だったから…月光浴、してた。」
厳密に言えば、「月光浴」という言葉は存在しない。それは日光浴に準えてそう呼んでいるだけだ。けれど、のその様は、本当に「月光浴」と呼ぶに相応しいものだった。
「……月光浴、どうだった?」
他に何を聞いたらいいのかもわからず、我ながらおかしな質問をしてしまった。はそれを笑うこともせず、静かに返した。
「月にはね、不思議な力があるって、前、何かの本で読んだの。だったら…その不思議な力にあやかりたいなって思って。流れ星に願いをかけるより、簡単だし」
だって流れ星なんてなかなか流れないし、3回も願い事を唱えるなんて物理的に不可能だよね、と続けたに、胸がズキンと痛む。…は、月に何をあやかりたかったのだろう。
が言葉を続けることもなく、快斗も返す言葉が見つからない。ただ静かなだけの時間が僅かに流れ、快斗は不意に我に返った。…思い出したのだ、自分が何のためにの元へ向かったのか。どうしてわざわざ、こんなところまで来たのか。
!」
「……快、斗?」
ぐい、との肩を掴み、正面を向かせる。快斗の突然の行動に面食らっているに構わず、快斗は大きく息を吸った。
(…もし、月に)
本当に、不思議な力があるのなら。今、この瞬間。自分の背中をほんの少しでいい、押してほしい。天邪鬼な自分を押さえつけてほしい。
(ずっとずっとずっとずっとずっとずっと)
言いたかった言葉がある。伝えたかった想いがある。
目の前にいる、この少女に。





                      「 好 き だ 」





…ゆっくりと、の目が見開かれていく。
本当は、もっと色々と考えていたのに。頭の中で何度も練習したし、キザな台詞回しだってお得意分野だ。それだというのに、いくらでも格好のつく台詞が出てくるはずだったのに、いざ口にしてみたら、…それは、たった一つの言葉になってしまった。
「……かい、と、」
「好きだ。オレ、が好きだ。この世界の中で一番好きだ、大好きなんだ!!」
言葉がまとまらない。気持ちが形を成さない。暴走した想いは、端的な、だが直球の言葉としての元へ届いた。カーブも様子見の球もない。全てがストレートに、まっすぐにの心の中心へと届く。
、オレ、」
再び言葉を紡ごうとした口を、反射的に閉ざす。…足音が、聞こえた。
(やべ、)
見回りだ。こんなところを見つかろうものなら、どうなるかわかったものではない。
瞬間的に、いつも追われているときのように考えを巡らせる。逃げるべきか隠れるべきか、はたまた変装するべきか迎撃するべきか。ここでの変装は意味を成さないし、迎撃などもってのほかだ。となれば逃げか隠れだが、耳で足音を確認できる距離にいる人間から逃げおおせることは簡単ではない。つまり、答えは一つ。
、隠れるぞ!」
「え?」
続けざまの快斗の唐突な行動に振り回され、が呆けたような声を上げる。だがそれでも大人しく従い、快斗に並んで教卓の下に隠れた。この頃には、の耳にも足音が聞こえるようになっていた。
「…見回り?」
「ああ。動くなよ」
囁くように聞いたに、快斗も囁き返す。当然ながら教卓の下とは人が入るためのものではないので相当狭い空間となっていたが、今はそれよりもこの場をやり過ごすことの方に神経がいっていた。
「…しっ、行ったか…?」
だから、そうして教卓の下から顔を出そうとしたとき、に後ろから服の裾を引っ張られて驚いた。
「…?」

「私も好きだよ」

ふんわりと、優しい微笑を浮かべてが続ける。
「私も、快斗が好きだよ。大好き」
飾る必要なんてない。伝えたい言葉は、たった一つだけだから。
「…お月様が、力をくれたみたい。月光浴の効果、あったかな」
そうしてのはにかんだような笑顔を見た瞬間、快斗は初めて知った。

嬉しくて、泣きそうになることがあると。

「好きだよ、快斗」
「うん。…うん、大好きだ。世界で一番、大好きだ。……好きだよ」
ぎゅ、と強く抱きしめて、顔を見られないようにする。…そんな自分が情けなかったけれど、どうしようもなく、嬉しくて。嬉しくて、嬉しくて。…嬉しくて、幸せで。
やっぱりまた、泣きたくなった。
そうしてそれはも同じだと、そのときの快斗に気付くことはできなかったけれど。


…遠回りをして、不器用に恋をして。やっと幸せにたどり着けた二人を、やわらかな月明かりがそっと照らしていた。



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