「…え、オレ?」 …冗談、だろ…? 「やっべー遅刻するっ!」 駅のホームを全速力で駆け降りる少年が一人。それに釘を刺すように、駅員が注意を促す。 『駆け込み乗車は危険ですので、おやめください…』 「わかったよ!…駆けなきゃいいんだな?」 そう言って、階段の手すりの上にひらりと飛び乗る。 『君!何をしてるんだ!?』 拡声器を通して響き渡る、駅員の声。他の乗客が何事かと振り返ったときには、少年は―――快斗は手すりを滑り降りていた。 「滑り込み乗車でーっす!」 …続く非難の声を聞く前に扉は閉まり、電車はゆるやかに駅を出発した。 (ふいー、ぎりぎりセーフ!さすがはオレ!) やれやれと息をつくも、電車の中は超満員。乗車率120%、というところだろうか。そんな中、どこか落ち着きがない少女がいることに快斗は気が付いた。 (あれ?確か…) …見覚えがある。 確か昨日、B組にいた。まだクラス全員の顔を覚えたわけではないが、座席が近かったため記憶に残っていたのだ。 (なにやってんだ…?) しきりに後ろを気にしつつ、この乗車率で身動きがとれないでいるらしい。その顔が不快そうに歪んでいるのを見て、快斗はようやく理解した。 (痴漢か…!) 真後ろにいる背広を着た男。表情こそ平静を装っているが、体の向きが不自然だ。…明らかにおかしい。 (…ったく) 男の風上にもおけない野郎だぜ… 満員の中、快斗はずりずりとそちらに向かって移動を始めた。気付いてしまった以上、見逃すのはさすがに後味が悪い。 「…おい、ちょっ」 『ちょっとあんた』と、声を掛けようとしたその時。 ふいに、誰かに左手を掴まれ…そのままぐいっと力任せに上まで持ち上げられた。 「へ?」 快斗がわけも分からずされるがままになっていると、先ほどの痴漢にあっていた少女がきっと睨みつけ、あろうことか快斗に向かって大声で叫んだ。 「この人、痴漢です!」 …掲げられているのは、自分の左手。 「…え、オレ?」 …冗談、だろ…? 「あははは、ごめんね!まさか助けてくれようとしてるなんて思わなかったんだもの」 「…いや、もういいけどよ…」 むすりとした仏頂面は、とても「もういい」と思っているようには見えないが、敢えて怒りを露にするほどでもないらしかった。 「借りができちゃったね。でも何も返すものがないから、精一杯の真心を送るね」 「いやいらないし」 …オレがどうこうしなくても、こいつ自分で何とかできたんじゃなかろうか。 高校に続く長い坂道を駆け上りながら、快斗は深々と溜め息をついた。…今日から授業だというのに、出だしは散々である。 結局あの後、周りの乗客の手で駅員のところまで連れていかれ、身の潔白を証明するのに大層な時間を費やしたのだ。誤解だと説明しても、犯人は逃げてしまっている。ようやく無実を認めてもらい解放されたとはいえ、結果的に二人揃って遅刻寸前となった。 当然、周りに他の生徒の姿は見えない。 「えーと…あなた、名前は?」 横を走りながら、少女――そういえばまだ名前を聞いていない――が聞いた。 「人にものを尋ねるときは、まず自分から!…だろ?」 「それは失礼しました!」 そう言って、坂の途中で急に立ち止まる。それを見て、快斗は慌てて声を掛けた。 「おい、間に合わねーぞ!」 「だって、自己紹介くらい落ち着いてしたいじゃない。それにもう間に合いそうもないし?」 …初日から遅刻かよ… がっくりと肩を落とすも、もはやこうなれば開き直りである。 走るのをやめ、彼女のいる場所へと少し道を戻り始める。 …そこへ唐突に強い風が吹き付け、快斗は思わず声を上げた。 「うわっ」 ぶわっ、と散っていた桜の花びらが一気に舞い上がり、一瞬前が見えなくなる。 「」 「え?」 そんな中、彼女はにこりと微笑んでそう言った。 「、だよ。よろしくね。1年B組です!」 「…あ、あぁ…」 …一瞬、思考回路が停止していた。 舞い散る桜吹雪の中、立っている彼女が…なんだかとても、綺麗に見えて。 「それで、君は?」 顔を覗き込まれ、慌てて飛びすさる。ひと呼吸置いてから、快斗はようやく名乗った。 「オレは…オレは、黒羽快斗ってんだ。オレもB組。よろしくな!」 それを聞いて、は笑顔で返した。 「うん、よろしくね、黒羽くん!」 そして、坂の上を見上げる。 「とりあえず…」 「ん?」 「…悪あがき、してみよっか」 言って、軽くウィンクする。 時刻は八時九分。…ホームルームまでは、あと一分ある。 「…だな!」 …二人が坂を駆け上っていったあとも、桜は変わらず舞い散っていた。 ---------------------------------------------------------------- BACK |