5時間目





五時間目は、学生にとって魔の時間帯である。
昼休みを挟み、お腹いっぱいになった生徒は授業なんか聞いちゃいられないのだ。絶え間なく襲う睡魔に、懸命に抗う者もいれば、さっさと諦める者もいる。
(…けど)
一週間の内、今日だけは皆の目がらんらんとしている。
「次、だよね?」
「うん!」
…今日だけは、特別なんだから。





コツ、コツ。
「!」
廊下を歩いてくる足音に、自然耳が反応する。この校内で、音がするような革靴を履いている先生は数少ない。
ガララ。
ドアが開いたのと同時に、は声を上げた。
「起立っ!!」
ガタガタと生徒が立ち上がり、入ってきたものが教卓の前へと立つのを見計らって言う。
「礼!…よろしくお願いしますっ」
唱和した声が続き、皆がばらばらと席に座ると、穏やかな声が言った。
「はい、じゃあ今日はこの前の続きから。本能寺の変だね」
…そう。
は、この教師…工藤優作が、好きでたまらなかった。勿論恋慕のそれではなく、憧れの対象としてだ。
ただ教科書の文章をなぞっていくだけではなく、歴史の裏も、教科書には載っていないようなことも教えてくれる。そうすることで無理なく順序良く頭に入るし、忘れることもなくなる。
「…説明したのは一昨日だからね。やったところまでで、忘れたり、わからないところはあるかい?」
教科書を片手にのんびり言われる。ばっちり記憶してるし、ノートにも書き込んだ。…自分は正しいはずなのに、この場で質問できないことが悔しかった。
「せんせー、質問」
手を上げたのは、自分の横で授業を受けていた一人の男子生徒だ。
「光秀が歌会で詠んだ歌、どんなやつだっけ」
(「時は今 あめが下しる 五月哉」だよ!)
心の中で答えつつ、は優作の言動を見守った。
「ああ、愛宕山の歌会のことだね。“時は今 あめが下しる 五月哉”だよ。時は土岐、あめが下しるは天下を表している…すなわち土岐氏が天下を取ると暗示していたんじゃないか、と言われている」
そう言うと、優作は椅子を引いて座った。
「ここから先は、本来の授業とはまったく関係がない。普通の勉強をしたいものは無視して自習してくれて構わないし、うるさかったら図書館へ行ってもいい。何か言われたら、私の名前を出してくれて構わない」
だが優作がそう言っても、誰一人として動こうとするものはいなかった。…皆の目は、先を聞きたくてうずうずしている。
「…了解。それじゃあ、続きを話そうかな。…光秀と家康が実は手を組んでいて、光秀は生き残っていた、という説だ」
胸が高鳴る。元々好きだった日本史だ。自分でも色々調べてはいたが、こんな話を高校で聞けるとは思っていなかった。
「家康の相談役的存在に、南光坊天海という人物がいる。この人物は、関ヶ原の合戦の頃、突然歴史上に登場している。それ以前、どこで何をしていた人物なのかはわからない。つまり…」
ちらり、と優作が視線を下へ向ける。それをキャッチして、は興奮気味に続けた。
「それが…その、天海こそが光秀ってことですか?」
「まぁ、そうなるかな」
そう言って、ウィンク一つ。がくらくらしている内にも、話は進んだ。
「家康の周りには他にも何人か僧が居たが、その中で一番信頼されていたようだ。さらに僧であるにも関わらず、戦術に優れ、合戦の際に作戦会議で意見を言ったりもしている。いくら知識があったといっても、他の武将を察し置いて僧が意見するというのは不思議だと思わないかい?」
「戦うお坊さん?」
女子が呟いたセリフに、教室がどっと沸く。
「端的に言えばそうだね。その後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠と家光にも仕えているんだ」
「…秀忠と家光って誰だっけ?」
こそりと後ろで交わされた会話に、優作がにこやかに反応する。
「秀忠は二代将軍、家光は三代将軍だ。妙だな、これは覚えろと言ったはずだぞ?」
「テ、テストまでには覚えますっ!」
再び沸いた教室に、も苦笑する。今のは歴史どうこうという以前の問題だろう。
「そう、実はこの“名前”にも面白い事実を見つけることができる。ちょっと考えてご覧」
そう言うと、優作は立ち上がり、チョークを持って黒板になにやら書き始めた。

秀 家  
忠 光

しばしその文面も見ているうちに、不意にがひらめいて言った。
「はいはい!それぞれの名前を一文字ずつ持ってくると、“光秀”になります!!」
「そう。よくわかったね」
オーッ、と、教室から驚きとも簡単ともわからぬ声が上がり、しばし賑やかになる。この事実がもたらした影響は大きかったらしい。
「この二人の名付け親は、何を隠そう天海だ。実は日光東照宮にこの時の文があってね、斜めに折りたたむと“光秀”となるんだ。四代将軍家綱と五代将軍綱吉に共通される“綱”も、光秀の父、“光綱”から抜き出したという説もある」
「す…ごい……!」
初めて知る話の一つ一つに、胸が高鳴る。思わずもらした言葉に、優作がを見て微笑んだ。
「…歴史は、奥深いだろう?」
「は…はいっ!」
上気した頬に、満面の笑みを浮かべて答える。本当に、なんて奥深いのだろう。自分はまだまだ、知らないことばかりだったのだ。
「さっき名前を出した東照宮だが、ここにも謎がある。当たり前だが、家康の家紋である葵の御紋がたくさん見られる。だが、陽明門を守る武士の紋はなぜか桔梗なんだ。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には、隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある。…そう。桔梗は、光秀の家紋なんだ」
ぞくり。
興奮の度を越えた何かが、背筋を走る。その部分だけ、優作が声を落としたせいもあるかもしれない。教室は静まり返り、皆息をするのも隠れるようにしている。…衝撃が、大きかった。
「表向きには徳川、だが密かに入り込んでいる桔梗の紋。これは一体、何を意味しているんだろうね」
そこまで言って、優作はパタンと教科書を閉じた。まだ誰も、動くことができない。
「…最後に一つ。東照宮に近いところに、中禅寺湖や華厳の滝が見える、平らかな場所がある。…ここを、明智平というんだ。天海はここに来たとき、『良い名だ。とても懐かしく、遠くのことのようだ』というようなことを言った、という伝説も残っているんだ」
ほー…と息をつく音が教室のあちこちで聞こえ、金縛りが解けたように皆が動き出した。興奮し、今聞いたことを確認するように話し合っている。
「せ…先生!すごいです、私今まで全然知りませんでした…!まさか、そんなことがあっ」
そこまで言いかけたの口元に、優作はそっと人差し指を当てて黙らせた。みるみる赤面してが黙ると、優作は他のみなにも「静かに」と言って黙らせた。
「以上のように、光秀は生き延びた、そして天海と光秀は繋がっていたと考えることはできる。だが、これはあくまで後の世の人間が考えたことで、推測の域を出ない。小さな可能性を示すだけだ。歴史は変わらない。結局は“謎”だ」
そう言って、ぐるりと教室を見回す。
「…だが私は、だからこそ歴史は楽しい、と思うんだよ」
そうして、得意のウィンクをひとつ。わっと沸いた教室には、鳴り響くチャイムの音など聞こえちゃいなかった。
「あんた…マジで顔真っ赤だよ?」
横の友人にそっと言われ、は黙って首を振った。
「…ヤバいよ。私、本当に工藤先生好きだ……」
「マジで?」
「!」
ふいに聞こえた声に、がばっと振り返る。そこには、が敬愛する“工藤先生”ではない“工藤先生”がいた。
「な…せ、先生なんでここに…!?」
呆気にとられたが呆然として言うと、新一は優作を親指で指して言った。
「おやじ…じゃない、工藤先生を呼びにきたんだよ。ちょっと用事があってな」
「職員室で待っていても良かっただろうに」
優作がそういって苦笑する。読まれていることを察して、新一は不機嫌そうに「行くぞ」と言って廊下へ向かった。
(…の顔が見たかったとかさ)
バレていたとしても、到底言えるようなことではない。…まったく、厄介なことこの上なかった。
「待てよ…もしかしてオレ、現時点でおやじにも負けてるんじゃねーのか…?」
“工藤先生好きだ……”
のせりふがぐるぐると頭の中を回って、新一は廊下でぐしゃぐしゃと髪をまぜて呟いた。
「にゃろぅ…敵が多いぜ」
(…頑張れよ、我が息子)
そんな新一を見て、優作は小さく心の中で呟いた。




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