記憶ほど曖昧なものはない、と思う。 どんなに忘れたくないと強く願っていても、時が経てば経つほどそれは掠れた記憶となっていく。逆に、早く忘れたいと思うものほど忘れられなかったりする。 …強く頭を打てば、それまでの全てを忘れてしまうことさえある。 「もし」 もしも。 「記憶を、失ったら…」 失ってしまったら。 「私が頭を殴って差し上げます」 唐突に聞こえた声に、ロイは弾かれたように振り返った。 「…いつのまに…」 「ノックはしました」 そう言って、どさりと書類の束を置く。…いよいよ机の表面積が減ってきた。 「上司を殴るのか?」 「…そういった衝撃で記憶を取り戻す、と聞いたことがあるので」 「…頼もしいな」 くるり、と椅子を回転させ、再び窓の外へと視線をやる。ホークアイが立ち去りそうな気配を感じ、ロイは「少し話があるんだ」と言って引き留めた。 「記憶がなくなったら良い、と思ったことはないか?部分的にでも」 例によって唐突なロイの問掛けに、ホークアイは暫し戸惑った。 「…大佐は?」 「私は君に聞いているのだがね」 質問を質問で返す、というやり方はかわされると逃げ場がなくなる。観念して、ホークアイはぽつりぽつりと話し出した。 「…全てが素敵な思い出、というわけではありませんが…どれも今の自分を構成する要素ですから。忘れたい、とは思いません」 「…そうか。私は…」 そこで一旦言葉を切り、一呼吸置いてから続ける。 「…よくわからないな。そうだといえばそうかもしれないし、そうじゃないといえばそうじゃないかもしれない」 「謎かけですか?」 「はは、違うよ。思ったままを言っただけだ」 そこまで言ってから、ロイは回転椅子をくるりと回してホークアイに向き直った。すっ、と背筋を伸ばして立っているホークアイとパチリと目が合う。…彼女は、自分が窓の外を見ているときも直立不動だったのだろう。 らしいな、と微笑したあとで彼女が来る前に考えていたことをゆっくりと話し出す。 「…さっき考えていたのは、もし自分が、望まずに記憶を失った場合だ」 事故や、薬なんかでね。 そう続けると、ホークアイが微かに眉を寄せたことが分かった。ロイの真意を図りかねているのだろう。 「…怖かったよ。もしそうなったら、と考えるだけで。今までの自分、名前までも忘れてしまう…それもなんだが、何よりも…」 君を忘れることが、怖かった。 ロイがそう言うと、ホークアイが軽く目を見開いた。…ぴくり、と微かに体が震えたのも、ロイは見逃さず、彼女の言葉を待つ。 「…大丈夫ですよ、忘れても」 だが、続いて発せられた言葉に、ロイは硬直した。 …大丈夫? 「おい、ちゅ…」 「大丈夫です」 何事か喚こうとしたロイを制し、ホークアイは微かに微笑んで続ける。 「私が大佐を殴って、思い出させますから」 「……あ…」 「では失礼します。また後程」 言うが早いか、あっという間に立ち去ったホークアイに、ロイは暫し呆然としていた。閉まったドアを数分も眺め続けてから、ようやく我に帰る。 「…まいったな」 いつもそうだ。 彼女は自然に、そして一瞬で自分の心を奪ってしまう。 (どれも今の自分を構成する要素…か…。) 今の自分は、どれくらいが彼女への想いで構成されているのだろう。うっかり数式をたてかけ、慌てて頭を振って打ち消す。馬鹿らしい。数字で出せるものではない。 「…待てよ…中尉が記憶を失ったら俺が殴るのか…?」 無理だ無理!! なにかいい薬をつくらなければいけないな… 失ってもいない記憶を取り戻す薬の構成を考えていると、どすんという音と共に目の前に紙の束が降ってきた。 「…あのですね、大佐。お願いですから仕事してください」 …いつのまにか、大分時間が経っていたらしい。遠慮せずに怒りマークを乱射しつつ、ホークアイが低い声で言う。 「あ、いや、あのだね、これは薬を…」 「薬?」 ロイが事情を説明すると、ホークアイが深いため息と共に言った。 「…大佐、心配要りませんから」 「だが、私には君を殴るなんて…」 「ですから」 ロイの言葉の途中で割り込み、強い調子で言いきる。 「忘れませんから。」 それだけ言うと、今度は一言の挨拶もなくずかずかと部屋を出ていく。…ロイはそのまま固まっていたが、やがてへにゃりと机に突っ伏すと小さく呟いた。 ああ…また、やられた。 ---------------------------------------------------------------- 2004.6.29 BACK |