チキ、チキ、チキ。 静かな音を刻みながら、ゆっくりと、カッターの刃を出す。 人のいない、放課後の教室は音がよく響く。 「……。」 チキ、チキ、チキ。 更に刃を出したところで、ふいに声が降ってきた。 「…何してんだ?」 が顔を上げると、そこには不思議そうな顔をした新一が佇んでいた。帰りがけなのだろう、鞄を肩に引っかけている。 (…工藤君、だったよね) 座席表ではなく、新聞の見出しをぼんやりと思い出す。こんな風に話しかけられたのは、初めてだ。 「…カッターの刃、出してるの」 素直に答えると、ぽん、と頭の上に手を置かれた。 「んなこと聞いてんじゃねーよ。オレが聞きてーのは、なんでカッターの刃なんか出してんだ、ってことだ」 (…わかってるよ) わざと、ひねくれてみただけだ。 「これね、2本で100円だったの」 キチチチチ。 刃をしまいながら、ぽつりと言う。 「…それで?」 いつの間にか、新一は自分の席の一つ前に腰を下ろしていた。帰らなくて良いのだろうか、とちらりと思ったが、口にはしなかった。 「つまり、1本50円」 キチッ。 すべての刃をしまい終わったカッターを、手首に当てる。 「しゅっ、てさ、」 言いながら、動脈の通っている辺りをカッターで素早くなぞった。無論、刃は出ていない。 「…これでも。」 軽く腰を上げ、新一の首元へ手を伸ばす。新一は、何も言わず、何もせずにじっとしていた。 「…しゅっ、て。」 今度は、手刀で軽くなぞる。椅子に戻ってから、再び机の上のカッターを手にした。 「これでおしまい。…人の命なんて、安いもんじゃない?」 たった50円。 そう言って天を仰ぐと、妙に気の抜けた声が返ってきた。 「…なんだ、そんなこと考えてたのか」 「…は?」 そんなこと? 仮にも探偵を名乗る彼だ。叱責の一つや二つ、受ける覚悟をしていたのだが。 「おめーが深刻な顔してカッターいじってるから…」 そう言って、困ったようにがしがしと頭をかく。…どうやら自分は、いらぬ心配をされたらしい。 「あはは、心配してくれてありがと。とりあえずその気はないから、安心して」 言ってひらひらと手を振る。「さよーなら」の意味合いを込めていたのだが、聡明なはずの名探偵は席を立たなかった。 「…そんなこと、二度と考えるんじゃねーぞ」 ふいに低くなった声音に、びくりと小さく肩が震える。の手にあったはずのカッターは、いつの間にか新一が片手で弄んでいた。 「おめーが本気でそんなこと言うやつじゃない、ってのはわかってっから」 「……はぁ」 確かにその通りだ。 居残りレポートに飽きて、なんとはなしにカッターで遊んでいただけだ。先ほどのセリフは、話しかけられたから返した、ただそれだけの虚言である。…だが、彼にそんなセリフを言われるほど、自分を知られた覚えもなければ深い関係になったこともない。 「どーも…」 他に言いようもなく、気の抜けた言葉を返す。ここでようやく立ち上がると、新一は床に置きっぱなしだった鞄を手に取った。 「…そのレポート、終わらないんだろ?手伝ってやるよ。図書室で待ってるから、帰り支度してから来いよ」 「………は?」 が呆気にとられている内に、新一はのレポートを勝手にさらってさっさと立ち去ってしまった。 「…へ?いや、おーい…?」 好意は嬉しい。確かに厄介なシロモノだから、彼のような人に見てもらえるなら心強い。 「!」 慌てて廊下に飛び出し、まだ見える背中に声をかける。 「お返しとかできないよ!」 の大声にか、内容にかはわからないが、新一は呆れた表情で振り返った。 「いらねーよ。…でも、くれるってんならこれくんねーか?」 言って、右手に持ったカッターをひらひらと振る。 「? そんなんでいいの?別にいいよ。どうせもう一本あるし」 2本で100円。同色同型のものが、自宅にある。 「さんきゅ。…あ、ってことは」 教室に戻ろうとしていたが、まだなにかあるのかと振り返った。途端、いたずらっぽい笑みを浮かべた新一と目が合う。 「オレと、ペアルックだな」 「ペッ…!?」 予想だにしない単語に、カッと紅潮する。その隙に、新一はさっさと図書室へ向かってしまった。 …一体、何だというのだ。真意が見えない。 「…したく、しよ」 なかば放心したまま、は教室へと戻ったのだった。 「ペアルックは古かったかな…」 器用にカッターをくるくる回しながら、新一は独りごちた。 「…おめーには感謝しなきゃな」 いつも見ているだけだった彼女に、話しかけるきっかけをくれた。いささか物騒なものではあったが、あんな風にちゃんと会話できたのは初めてだ。 …先ほどのセリフで、自分がずっと彼女を見ていたてばれたかもしれない。 「…ま、そんときゃそんときだ、ってな。本番はこれからだ!」 ぽーん、とカッターを放り投げる。 西日を映した刃が、キラキラと光っていた。 ---------------------------------------------------------------- 2005.4.12 BACK |