「逆行性健忘症……。」 それが、彼女に課せられた病名。 雨 夜 の 月 2 「え……それじゃあ、ちゃん……」 「記憶がない、ってコトね。数ヶ月間の」 病院の屋上に上り、快斗が話したのは“の記憶障害”について。 木から落下したのが原因で、遡って数ヶ月間の記憶を失ってしまったのだ。 「そういことになる。…日常生活には問題はないし、誰か特定の人物を忘れてしまっているわけでもない。今すぐどうにかしないとヤバい、ってーわけじゃねーから、それは良かったんだけどな」 「良かった、って…でも、今のちゃんは、快斗のことを……!」 「青子」 青子の言葉をさえぎり、快斗はかしゃん、とフェンスに背をもたせ掛けた。 「…言うなよ、オレとのこと。」 「……え?なんで?」 今にも病室に舞い戻りそうな青子を制し、紅子が静かに続けた。 「中森さん、冷静に考えて御覧なさい。今のさんにとって、黒羽くんは赤の他人。ただのクラスメイト以下でも以上でもないのよ。そんな人と付き合ってた、と言われても、心労が増えるだけよ。…自責の念も、強くなるでしょうね」 「自責……?」 「“大切な人を忘れた”自分を責める気持ちよ」 「あ……………」 ぎゅ、と。 強く拳を握り締め、青子は快斗を見やった。 (…そうだ。今、一番つらいのは、快斗自身だ……) 本当は、今すぐにだってに自分とのことを話したいだろうに、のことを想えばこそ言えずにいる。…身を、裂かれる思いだろう。 「…うん、ごめん。」 「青子が謝ることじゃねーよ」 …そう、誰も悪くない。今一番腹立たしいといえば、何もできない自分自身にだ。そしてを傷つけるのが怖いといって、自身が傷つくのを怖れている。 (……。、っ………!!) こんなに、こんなに、想っていても、自分は単なるクラスメイトでしかなくて。 「……帰ろう。オレらにできることは、ねーんだ」 す、と横を通り過ぎ、屋上の入口へと向かった快斗に、青子はぎゅっと胸が締め付けられた。 (快斗……) 大丈夫、大丈夫だよ。きっとちゃんは、快斗のことを思い出す。見つけ出す。だから。 そんな顔、しないで。 「逆行性…健忘症?」 「そう。わかりやすく言えば、記憶喪失だ」 「え、私、記憶失ってるんですか!?」 「今、自分がどうしてここにいるかわからないだろう?」 「……あ、」 「そういうことだよ」 主治医の言葉に、は急速に不安になっていった。…自分の生きてきた時間の中に、自分の知らない空白の時間がある。それは、どうしようもないくらい不安なことだった。 「あの、」 「戻る保障は、ない。」 「っ、」 先回りされて言われた台詞に、言葉に詰まる。…だが、その後、ふっと微笑むと、そっとの頭に手を置いて言った。 「戻らない保障も、ないよ。」 「え……」 「さあ、お友達が来ているよ。あまり心配させるんじゃないぞ」 「いた、いたたっ!」 「ちゃーん?」 ぐりぐりとされた頭を抱えているの元を笑いながら去っていく医師に、青子が怪訝な顔をする。 「…今の、先生?変わった人だね」 「う、うん……」 ほう、と息をついてから、先ほどの言葉を反芻する。 『戻らない保障も、ないよ。』 (…戻る、って信じよう。) やっぱり、自分が知らない時間が自分の中にあるなんて、気持ち悪いもの。 「あれ、今日は青子一人?快斗はいないの?」 の言葉に、青子がぱっと目を輝かせる。 「か、快斗のこと、おもっ……じゃなくて、……えと、どうして?」 はやる気持ちを抑えるような青子の様子に、は首をかしげた。 「…あれ?なんで私、今、快斗なんて言ったんだろ。いつも一緒にいるから…かなあ…?」 (ちゃん……) 無意識、なんだ。 記憶に残っていなくても、…記憶には、残っていなくても。 「失礼するよ」 キィ、と扉が開く音がして、中に入ってきたのは亜麻色の髪をした学ランの少年だった。 「あー……ええと、さん、と呼んだ方がいいんだろうね」 「白馬くん……」 そう呼ばれ、少年――白馬探――は、苦笑を浮かべた。 「成程、これはなかなかきついかもしれないな」 「え?」 「いや、なんでもないよ。……記憶が、ないと聞いたよ。大丈夫かい?」 「あ、うん……別に、日常生活を過ごす分には…問題、ないって。」 「そうか」 「白馬くん!」 青子の声に、白馬がチラリと視線をやる。…余計なことを言うな。それは恐らく、「彼」本人からの希望だろう。 だが。 「…さん。僕がこんなことを言うのは、変かもしれないし、立場的には、利用するべきなのかもしれないけど。」 「白馬くん……?」 ぐ、との両肩を握ると、ゆっくりと、静かに言う。 「君には、忘れていることがあるんだ。」 「……………!」 の目が、大きく見開かれる。 (…そ、れ…は……) 私だって、馬鹿じゃない。 記憶喪失だということは既に聞かされている。白馬が言いたいのはそういうことではなく、何か、そう…“自分”を形成する上で、忘れてはいけないこと。忘れてはならないことを、何か、忘れているということだ。 「…まあ、君が思いださないほうが、僕にとっては好都合なのだけれど」 そう、冗談めかして言った白馬に、が眉をひそめた。 「それって、どういう……」 「生憎、そんな卑怯な真似はしたくないからね。今回はいい人に回させてもらうよ。それじゃあ」 言うだけ言って病室を出て行った白馬に、はただ疑問符を浮かべるしかなかった。 「青子……今の、って」 「……ええと、うん。どういうこと、だろうね……」 そう返すことしか出来ず、青子は冷や汗を拭ってから、ほう、と息をついた。 ---------------------------------------------------------------- |