(オレは…弱いな)
倒れこんだをベッドへと運び、自分もそこに腰掛ける。
が横にいるのが、当たり前だった日々。確かにそこにはいるのに、自分の隣にはいてくれない。それは思っていた以上にしんどく、きついものだった。
は、変わらず名を呼んでくれる。けれどそこに、かつて含まれていたはずの情はない。…クラスメイトでしか、ない。
『いっそ、オレの存在そのものを忘れてくれたら』
そんな風に考えてしまった自分は、なんと情けなく弱いのだろう。
はこんなになってまで、自分のことを思い出そうとしてくれているのに。
…サイレンは、遠い。
元々今夜は、のところへ来る予定だった。けれどそれは、仕事を終えてからのつもりだったのだ。それが計画変更、逃走中に寄ることになってしまったのは、空からが見えたからだった。
…愛しそうに月を見上げる、が。


抱きしめられている、夢を見た。

やっぱり空には、大きな月があって。

……愛しくて、切なくて。

夢の中で、私はぽろぽろと涙を流してしまった。





雨 夜 の 月 5







「……ん…」
目覚めると、そこはベッドの上だった。
誰かに抱きしめられているわけでもないし、月も見えない。…けれど、涙だけはこちらでも流してしまったようだ。

「うわっ!?」
唐突に名を呼ばれ、慌てて目をこすってから飛び起きる。…まさか、誰かがいるとは思わなかった。
「……って、え?……快、斗?」
「オゥ」
「でも、それ…あれ?そもそも何で…」
目の前でベッドに腰掛けているのは、快斗だった。…しかし、身にまとっているのは見慣れた制服ではなく、まるで怪盗キッドそのものの衣装だ。
「…私、キッドの前で倒れた気がする」
「だからベッドに運んだんだ。まだ1時間もたっちゃいねーよ」
「……えーと。」
急展開に思考がうまくついていかない。…つまり。
「快斗が、キッド?」
「ああ」
あっさり認められて、は飛び上がった。
「ちょ!そんな簡単に認めていいの!?ていうかばらしていいの!?」
「………ああ。情けないのは、もうやめだ。オメーが本気なら、オレばっか逃げてるわけにもいかないからな」
(逃げて…?)
言葉の意味が、よくわからない。
不思議そうにしているの頭を、快斗が優しく撫でる。
「…怖い夢でも見たのか?今日はもう寝とけ。オレも、オメーが寝たら帰るから」
「あ、」
涙の跡を、見られてしまったらしい。
(でも…なんだろう)
悲しいわけでは、ない。…むしろ、胸があたたかな気持ちで満たされているのだ。それが何だか嬉しくて、恥ずかしくて。は、そっと微笑を浮かべた。
(………)
かすかに微笑んでいるの瞳に、今、自分は映っていない。…一体誰の夢を見て、どんな夢を見て、そんな顔をしているのだろう。
「…快斗?」
「え?」
「どうしたの?」
急に不安そうになったに、快斗のほうが驚く。
「どうしたの、って…オレ、どうかしたか?」
「……なんで、」
そこで一旦言葉を区切り、ぎゅ、と強くシーツを掴む。
「なんで…そんなに、悲しそうな顔をしているの?」
「……………!!」
悲しそうな、顔。
培われていたはずのポーカーフェイスは、肝心のときに働いてくれなかったらしい。
「あ…いや、なんでもな……悪い、不安にさせたか?」
内心の動揺をできるだけ押し殺し、笑顔で応える。…笑顔になりきれていた自信は、正直ない。
「…不安?違う……わからない、けど…快斗が悲しそうだと、ものすごく苦しい。なんだか、わけのわからない焦燥感に襲われて…」
つい、とが顔を上げる。その表情に、快斗はドキリとした。…その瞳には、覚えがあったのだ。そう…記憶を失う前に、が持っていた瞳の色。
「おかしいとは思うんだけど、何だか……」
「……何だか?」
促した先の言葉は、なかなか続かない。けれど、意を決したようにが続けた。
「抱きしめたく、なるの。」
…記憶にはない、心が紡ぎだした言葉。
言って自分で恥ずかしくなったのだろう、慌てて言い繕う。
「変だよね?快斗はただの友達なのに、私、どうかしちゃったのかな」
そう言って笑った、…哀しそうに笑ったを前にして……快斗は、自分の中の何かが弾け飛ぶのを感じた。
「………っ、!!」
強く、強く。
持てる力のすべてを込めて、を抱きしめる。
にとって、今の自分はただの友達でしかないのに。突き飛ばされても、文句は言えないのだ。
それでも離そうとはしないままに、まもなく襲うだろう拒絶の言葉を、突き出されるであろう腕を、じっと待った。
……だが、は、快斗を罵倒することも、ましてや突き飛ばすことともしなかった。快斗の腕の中で、じっとしたままだ。
「…?」
「ごめん」
「…え……」
「ごめん、ごめんっ…ごめんなさい、快斗……!」
ぽろぽろと、大粒の涙が止め処なくあふれだす。それは見る間に快斗の服に染みを作っていった。
「おい、まさか、記憶が……」
「…戻っ、たっ…!」
しゃくりあげながら、必死に言葉を紡ぐ。
どうして、どうして忘れていたのだろう。
網戸を破って進入したのも、日記を勝手に読んだ不躾者も、
………怪盗、キッドも。
みんなみんな、快斗なのに。
(夢じゃない)
自分を優しく抱きしめてくれた、あれは快斗だったのだ。
月の明るい、川原での出来事。自分と快斗の絆が、確かなものになったとき。
「ごめ、」
謝罪の言葉しか、出てこない。そんなの顔を上げさせると、快斗は微笑んで言った。
「いいよ。…が帰ってきてくれた、それだけで十分だから」
そうしてまた、腕に込める力を強めて。

「……おかえり、。」

優しい声が、全身に染み渡っていく。
「…っ、ただいま、快斗……」
もう、どこにも行かないよ。ずっとずっと、快斗の傍にいる。
……待っていてくれてありがとう、快斗……。





ちゃん!」
「おはよー、青子!…って、わっ!」
元気に手を上げると、青子がそこに全速力で駆け寄り抱きついてきた。
「記憶、戻ったんだってね!良かった、本当に良かった…!!」
「わー、青子が泣くことないでしょ!…でも、心配してくれたんだよね。ありがとう」
ぎゅ、と抱き返しながら、遠くにいる紅子にも微笑む。
「紅子ちゃん!」
「お礼なんて言わないでね」
「うん。……ありがとう」
えへへ、と笑って言ったに、紅子はため息をついた。
「…人の話、聞いてたかしら?」
「紅子ちゃん照れ隠ししてるんだよ!すっごい心配してたんだから」
「中森さん、余計なことは言わなくていいのよ」
落ち着いた青子が、紅子相手に笑って言う。そんな当たり前の日常に、ようやく自分が『帰って』きたことを感じて、は嬉しくなった。
「…『』、さん」
そっと声をかけてきたのは、白馬だ。
「探くん!…心配、かけたよね。ごめんね」
その声に、白馬が安堵したように微笑む。
「…本当に、戻ったようだね。安心したよ。今後はもう、無理をしてはいけないよ?」
「うん!」
ちゃーん!」
「今行くよー!」
青子の呼び声に応え、駆け出す。それを見送ってから、白馬が小さく呟くように言った。
「やれやれ、千載一遇のチャンスを逃したかな」
「…ケッ、よく言うぜ」
そう返したのは、快斗だ。
「…オメーにも、世話になったからな。礼言っとく」
「やめてくれないか、気持ち悪い。君からの礼なんて」
「……へいへい」
すっかりいつもの調子の白馬に、快斗も笑みを浮かべた。

が帰ってきた。
その幸せを、かみ締めながら―――…



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