龍神の神子は、役目を終えると天に帰るという。
…その逸話が、果たして本当なのか嘘なのか。
いや、正直なところ、そんな逸話はどうでも良いのだ。
(神子殿…)
………そう。
彼女がこちらに残ると、そう決断しさえすれば。
月からの迎えなど、自分が蹴散らしてしまえば良いのだから。





「友雅さん!」
ぱたぱた、と。
およそ京の姫君には不似合いな足音を立てて、が駆け寄ってくる。
最初の頃こそ驚いてもいたが、今となってはそれが心地よい。
「…なんだい?神子殿。」
「えっと……」
…それは、愛しい人が、自分を求めているという合図だから。
「今日は、町の様子を色々見て回ろうと思っているんです!…その、友雅さんさえ良ければ、一緒に出掛けてもらえませんか?」
断られたら、どうしよう。
そんな不安を含んだ声で、緊張した瞳で。
…彼女にとっては、一大決心なのだろう。少し苛めてしまいたい気持ちにもなるが、ここは素直に頷いておくとしよう。
「勿論、構わないよ。早速行こうか?」
「はい!」
ぱっ、と、花が咲いたように笑う。
…その笑顔を、愛おしいと、大切だと。…他の誰にも渡したくないと、思う。
(子供じみた独占欲)
そんなことは、百も承知だ。…だが、それでも。
仮に彼女が、この京に残ったとしても。
その隣にいるのが自分でなければ、そこにはなんの意味もないのだ。
「行きましょう、友雅さん!」
先に立って歩き出す姿が陽に透けて、瞳を細める。
「…ああ、今行くよ。」

……自分を、過信していたといえばそうなのかもしれない。
彼女の微笑は、自分にしか向けられていないわけではないのだと。
そう気付いたのは、それから間もなくのことだった。





「…おや?今日は神子殿はいらっしゃらないのかい?」
数日後。
友雅が藤姫の邸を訪ねると、既にそこはもぬけの殻だった。
「ええ。今朝は早いうちから、天真殿とお出かけになられてますわ」
(天真と……?)
ざわり、と。…心が、波立つ。
「……そうか。天真とは、初めて?」
内心の動揺を悟られないように、藤姫に話を振る。
友雅のそんな心情は察することなく、藤姫は笑顔で話を続ける。
「いいえ、ここのところはよくご一緒にお出かけされてますわ。神子様と八葉の方々の絆が深まっている証ですわ!藤は嬉しゅうございます」
「…………。」
無言でその場を去った友雅に、藤姫が不思議そうに首を傾げる。が、追求することもないだろうと、そのまま友雅を見送った。
(神子殿が、天真と?)
天真とは、同じ世界から来たもの同士として常からよく話している様子は見かけた。けれどそれは、友人としてのものであって、それ以上ではないと思っていたのだが。
「……帰って、しまうのか?」
天に。
…元いた、世界に。
かつてないほどの焦燥感に、友雅は自身の胸を強く押さえた。
囚われるものなどないと思っていた。
消失を恐れるものなど、ないと思っていた。
……思って、いたのに。
「……………っ、」
認めないわけには、…いかなかった。





「……?」
月が、翳った気がした。
空を見ようと立ち上がった瞬間、強い力で腕を引かれ後ろに倒れこむ。
「……っ!?」
「しっ。静かに」
ぽすん、と倒れこんだのは、固い床ではなく侍従の香のする着物の中だった。
聞きなれたはずのその声も、今は警戒を解く助けにはならない。
「友…雅、さん?一体、なんで…」
この京の暮らしにも、少しは慣れてきている。
そうでなくても、今この時分に友雅がこの場にいることはおかしいのだと、それくらいの判断は出来る。
「君に、念を押しておこうと思ったのだよ」
「念……?」
ぐ、と。
腕に込められた力が強さを増し、それに息苦しささえ覚える。
「と、ともま…」
「君は、どこにも行かせない」
頭上から降ってくるのは、いつもよりもずっと低い声。
ぞくりと背筋が粟立つ感覚に、とっさにその腕から逃れようともがく。
「どこへ行こうというんだい?…神子殿。」
組み直された腕からは、到底逃れられそうもない。それでも身じろぎしていると、友雅がそっと耳元で囁いた。

「…私を振るつもりかい?」

「っ…!?」
先ほどとは違った感覚で、鳥肌が立つ。
このままでは、この声に流されてしまう。流されてはいけない。そうは思っても、武官である友雅の腕から、どうして逃れることができるだろうか。
「やめ、」
「おや、わかるのだね。…いや、わかってはいないのか」
恐らく、本能が警鐘を鳴らしているのだ。この男に流されるな、と。
…けれど、もう遅いのだということも。
きっと同時に、わかっているのだ。
「友ま……!」
「…大丈夫だよ。私に全てを、委ねてしまえばいい」
恐怖に歪む、その表情さえも、愛おしい。
…もう二度と、陽の下で笑顔を見ることは叶わないかも知れない。
その唇から、名を呼ばれることもないかもしれない。
(それでも)
例え、そうだとしても。

…誰かに奪われるくらいなら、いっそ壊してしまえば良い。
そうだろう?……愛しい、私の。
私だけの……



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