お菓子業界の戦略、などとかわいくないことも言う輩もいるが、…この季節、世間が甘い香りに騒ぐ。







シュガーレス・プリーズ








「…さて、どうしたもんかな」
はばたき学園を卒業して、初めてのバレンタイン。勿論2月14日は国民の休日だったりするわけではなく、春休みに入っている自分とは違って高校では普通に授業がある。
(…ま、私だってそれを利用していたわけだけど。)
一年目は『すべての男性教論に公平に分配される』という信じがたい言葉を頂戴し、二年目は味見程度、三年目にしてようやく受け取ってもらえたチョコレート。
(…うんうん、頑張ったよね自分)
そんな感慨にしばし浸ってから、そんなことをしている時間はないのを思い出した。今日はもう、13日だ。
「どうせ期末試験の準備で、遅くまで残ってるよね…氷室先生。」
ふぅ、とため息をついて、は枕を抱えて寝返りを打った。趣味が試験問題作り、という有り得ない人物を好きになってしまった自分にも問題があるが、そんな趣味をもっている相手を少々恨めしくも思う。
(…名前もなぁ)
卒業して一年になろうというのに、自分はいまだに「氷室先生」と呼んでしまう。恋人である以前に、自分にとって氷室は「先生」であり、また氷室にとってもは「生徒」であるのだろう。を下の名前で呼んだことがない。一度だけ「零一さん」と呼んでみたが、呼ばれた氷室が真っ赤になって始末に負えなくなり、それ以来決して呼ばなくなってしまった。
「…家のポストに入れとくか」
カードにメッセージでも添えて入れよう。
(疲れて帰ってきて、甘いものを発見…うん、いい筋書き!)
そう結論付けると、はコートをひっつかんで家を出た。…手作りチョコの、材料を買いに。





「………って、なんで寝過ごしてるの!!」
がばっ、と飛び起きて時計を見れば、すでに午後五時を回っていた。…14日の、だ。
13日は「明日作ろう」と思い、早々に寝た。14日は…今日は、なんでまたこんな時間まで寝てしまったのだろう?
「…あ、まどかと遊んだんだっけ」
卒業以来、何かと相談に乗ってもらったり一緒に氷室をからかったり、まどかとは付き合いがあった。暇だから付き合えと言うまどかの誘いを受けたのが午前八時過ぎ、帰宅したのが四時過ぎ。すぐに作らなければと思いつつ、うっかり寝てしまったらしい。
チョコを溶かして固める作業を考えると、もはや一刻の猶予も許されない。
「〜〜〜っとにもうっ!何も成長してないんだから!」
結局高校の頃と同じく、ギリギリになってからのチョコ作りになってしまった。半ば自分に呆れつつ、急いでキッチンへと降りていく。
「あ、姉ちゃん」
「尽!暇してるなら付き合って!どうせチョコは学校でもらってきたんでしょ!」
そう言ってが尽を強制的に手伝わせようとすると、尽がちちちと指を振って言った。
「悪ぃな姉ちゃん、これからデートなんだ。じゃーな!」
「なっ…!」
唖然としている内にも、尽はさっさといなくなってしまった。…もはや姉に構っている場合ではないらしい。
「…仕方ない。急いで作ろ!」
失敗は許されない、一発勝負のチョコ作り。
袖をまくって気合いを入れると、は勢いよく冷蔵庫の扉を開けた。





(…よし!まだ帰ってない!)
遠目に氷室邸を眺め、は小さくガッツポーズを作った。これなら、作戦遂行が可能だ。
…時刻は間もなく九時を回ろうというところだった。本来ならとっくに帰宅しているはずの時間だが、期末は嵐が起こるなどと平気で言うような教師である。問題作成に熱中しているのだろう。
(疲れて帰ってきて、甘いもの見つけてやったね作戦開始!)
コトン。
(終了!)
さぁ帰ろうと、きびすを返す。数歩歩いたところで、ポケットの中の携帯がじゃんじゃんと鳴り出した。
「うわっ、びっくりした!…もう、誰?」
急いで取り出し着信画面を見ると、そこには「氷室せんせー」と表示されている。慌てて通話ボタンを押し、「もしもし」と言いながら耳にあてた。
『…氷室だ』
「わかってます。表示されてますから」
『いちいち揚げ足をとらなくてよろしい。…全く君は、何を考えているんだ?』
「はい?」
何を…と突然言われても困る。今は、帰ってから見るテレビ番組のことを考えていた。
「…今日のビストロ、ゲスト誰かなあと」
『全く以て意味が分からない。人の質問には正確に答えなさい』
「はぁ…?」
何が何だか意味がわからないのは自分だ。…だが、どういうわけか氷室が苛立っているのだけはわかった。
「せんせー、なんで今日は“先生”口調なの?私、もう生徒じゃないよ?」
『「…教育的指導だからだ。」』
「は」
電話をあてた右耳と、何もあてていない左耳。…不自然に聞こえたダブルサウンドに、は歩を止めて固まった。…まさ、か。
「…未成年が、こんな時間に一人で出歩くんじゃない。最近は物騒なんだ」
ひょい、と携帯を取り上げられ、強制的に終話ボタンを押される。…ゆるゆると振り返れば、そこには今まで携帯で話していたはずの氷室が立っていた。
「…わー、せんせーが携帯から飛び出してきたよ」
「もう少し現実的な物言いをできないのか」
「じゃあせんせー、何でここに」
「……それは…」
自分から言ったくせに口ごもった氷室から携帯を取り返すと、は氷室をじっと見つめた。あからさまに視線をそらす氷室の顔に合わせて自分も移動し、にやりと笑って言う。
「…せんせー、ポケットに何入れてるー?」
「なっ…」
慌てて右ポケットを押さえた氷室を見て、はいよいよ笑みを深くした。
「そっか、ちょうど帰ってきたんだ!それで、急いで道路に出たら私がまだ見えたんでしょ?…そこから電話して後つけるなんて、せんせー趣味わ…」
「ああもう君は!もう少し婉曲かつストレートな物言いが出来ないのか!?」
赤くなった氷室が言った言葉に、が吹き出した。
「せんせー、矛盾」
「…正直、忘れていたんだ。ポストの中を見る瞬間まで」
忘れていなければもっと早く帰ってきていた。
口元を押さえ、視線を明後日に向けたまま答える。…その言葉に、きょとんとしたのはだ。
「…まさか、バレンタインを?」
「そうだ…」
呆れを通り越し、感心してしまう。…たまにどうしようもないボケを繰り出す人だとは思っていたが、まさかここまでとは。(まぁ、今年はそのせんせーのボケがあったからこそ間に合ったんだけどね。)
「…っぷ、せんせーらしいなぁ」
「…何か言ったか」
じろりと睨んで言った氷室から「なんでもありませーん」と言って逃げると、は不満そうに言った。
「一生懸命作ってもこれだもんなぁ。来年からはやめようかな」
「な…」
何事か言って反論しようとした氷室の口元にすっ、と指先をあてると、がにっと笑って言う。
「来年からは、自分にリボン巻いて玄関の前で待ってます」
「〜〜〜〜っ、いい加減にしろ、!」
真っ赤になった氷室に大笑いしてから、ふいに気付く。
「…あれ?今せんせー、名前……」
「……そんなことどうでもよろしい。とにかくもう遅いんだ。今車を持ってくるから、ちょっと待っていなさい」
すたすたと去る氷室の背をしばし呆気にとられたように見つめてから、は微笑を浮かべた。
(…一年近くたって、ようやく脱・生徒?)
それもせんせーらしいけどね、なんて呟いてから、車を待ちに道の端へ寄る。
せんせーの家から、私の家まで。…どうしようもなく短いけれど、ささやかなバレンタイン・デートだ。
(このくらいの、甘さ控えめがいいんだよね)
あのせんせー相手に全力でアタックしまくったりしたら、どうなるかわかったものではない。…見てみたい気も、するけれど。
「…たまには押してみようかなあ」
バレンタインだもん。ていうか慌てたせんせーの顔、かわいいし。

…そう思いついたが運転中の氷室の横顔にキスをしたことで、車がクラッシュしかけたのは言うまでもなかった。



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