例えばそこに在る、消しゴム。





「…ないと、困る。」
ぽつりと呟き、はノートのページを繰った。
「何がだ」
「独り言ですー」
「…この状況下で独り言とは、余裕だな」
「あは……」
足を組み、教科書を左手に、赤ペンを左手に持った氷室が目の前に座っているのだ。夢に見たら確実にうなされる。…確かに、余計なことを考えている余裕などないのだが。
(…そうなれたらいいな、って。)
そう、思ったんだもん。
筆箱の中を探り、目当てのものを取り出して片手で弄くる。…氷室の目が危険な色を帯びてきたので、急いで誤った数式を消して筆箱に戻した。
「ねぇ、先生。」
「63ページの公式を使いなさい」
「そうじゃなくて」
「なんだ?」
「うーん…」
期末試験で赤点を取って、姫条も鈴鹿も逃げた(私を裏切って)最悪な状況で言い出すことでは、ないかもしれない。今にも目からビームを出しそうだ。
「…消しゴムって、普段はそんなに意識しないじゃないですか」
「? そうだな」
何を言いたいのか読めず、氷室は微かに眉を顰めた。
「でも、ないとすっごく困る。…あー、どこにやっちゃったかなぁって困って、探しますよね」
「私はものをなくしたりしないが」
「…そうですよね」
氷室相手に、ものの例えを誤った。とはいえ、今更引き下がるわけにもいかないので、ぐっと身を乗り出して問いかける。
「先生、私、困る?」
「……………学習的な面で言うならば、かなり困る部類に属するが」
…滑った。
緊張して、一番肝心な「私が“いないと”」を抜かしてしまった。
「満足か?」
「はぁ」
結果として自分の劣等っぷりを再確認しただけの問答に、はため息をついてペンを手に取った。
「……私は、なくさない。見失ったりしない」
「はぁ」
先生の完璧っぷりはわかりましたよ、と軽く流して63ページを開く。…公式を見てもわからないと言ったら、どうなるだろう。
「だから、困らない。」
「……?そうですね」
が浮かべた疑問符を見て、氷室はどうやらうまく伝わらなかったらしいことを察した。…先に消しゴムの例えを出したのはどっちだ、とため息をつき、教科書を握り直す。
「もういい。先に進めるぞ」
「はぁーい」
再び弄くっていた消しゴムを筆箱に向けて投げ、ペンを手に取る。
「この公式は一学期の三回目に説明した。ノートはあるか?」
「えーと確かこの辺に…」
…入り損ねた消しゴムが、ころころと転がって机の脚で止まる。そのままそこで、教室の隅の小さな恋を見つめていた。




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