夢と現の物語。





「うわぁ…雨、本降りだよー、どうしよ…」
駅の改札口を出たところで、は固まった。電車の中からも、雨が降っている様子は確認できたのだが、こんなにどしゃぶりになるとは思っていなかった。
「傘…持ってきてないし。売店は…」
“傘売り切れました”の文字が目に入る。考えることは皆同じらしかった。
「…とりあえず、下まで行ってみよ…」
どしゃぶりの雨の中を駆け下りて、下のカフェで雨宿りをしよう、と思い立ったのである。だが、雨とはいえ階段を急いで駆け下りるのは、あまりにも危険すぎた。

「え」

視界が回る。足が、地上を離れる。
「…きゃあああぁぁぁああぁぁ!!」
階段から足を踏み外した、次の瞬間。は、意識を失った。





ぱちり。
意識が戻り、は周りをゆっくりと見回した。…白い壁。白いカーテン。
(…病院?)
そう思った矢先、ぱしゃりと目の前で何かが光った。
(!?)
思わず眼を瞑る。
「あー、猫が目瞑っちゃった。もう一回いいー?」
「…はい」
また何かが光る。ようやくそれがカメラのフラッシュだとわかったが、今回は何とか眼を瞑らずに済んだ。
「はい、お疲れ様でしたー」
急にざわめく周囲に、不安を覚えて身近なところをぐるりと見回してみる。まず視界に入ったのは、手だった。
(……手?)
かなり大きい。
いや、自分の体をすっぽり包んでしまっているそれは、大きいという問題では…
(………何!?どうなってるのっ!?)
慌てて立ち上がる。…だが、視界が以上に低い。座っていた時とほとんど変わっていない。その時、パニックに陥りかけていたの頭上から声が降ってきた。
「…お疲れ、猫くん。」
「珪くん、そのこメスだよー」
「あれ…そうだったのか。悪かったな」
自分を見下ろす大きな顔。どこかで聞いたことのある声。
「……葉月!?」
思わず声に出して叫んだ…つもりだったのだが、ニャーニャーとしか喋れない。
(ニャー…って何!?一体どうなって、ねぇ葉月っ、私どうなっちゃったの!?)
目の前にいるのは、クラスメイトの葉月珪だ。なんで彼が突然私の前にいるんだろう?パニックが頂点に達し、は思わず走り出した。
「あ。猫、走ってっちゃったけど…」
「え?あーっ、追いかけて!!」
「…追いかけるのか?」
自分を追ってくる足音が、妙に大きく耳に響く。周りのものが全て大きく見える。いや、それとも…
それとも、自分が小さくなった?
柱の影に駆け込み、ようやく自分が“四つ足”で走っていたことに気づく。それに、なんだか毛むくじゃらで…
「…捕まえた。こら、だめだろ勝手に走ったら…」
ひょい、と簡単に体が持ち上げられた。…有り得ない。太っている方だとは思わないが、それにしたって自分はそんなに軽くはないはずだ。
「…俺のこと、嫌いなのか?」
突然目の前に現れた顔に、考えるより先に手が出た。

ぱふっ。

「…猫パンチ、きかないぞ。」
そんな考えは馬鹿げている、在り得ない。理性はそう告げてくるが、どうも、周りの状況、周囲の人間の呼び名から推測すると…
自分は、猫になってしまったらしかった。





「珪くん、その猫お気に入りですかー?ずっと抱いてますね」
「…いや、なんか、手離すとすぐどっか行こうとするから。」
スタッフの冷やかしのような声に、葉月はそう答えて視線を猫に戻した。本当にその通りなのだ。手を離すと、どころか、力を緩めるとすぐに逃げ出そうともがく。
「…お前、撮影の途中までは大人しかっただろ。何が気に入らないんだ…俺、何かしたか?」
ちょいちょいと頬をつつきながら呟く。としてはもう一刻も早くどこかに逃げ出したかった。逃げたからと言ってどうするあてもないが、ここにいても打開策が見つからないのも確かで。
(雨の中で…転んで、眼を覚ましたら猫で…一体どうなってるの!?)
ぐるぐると回る思考回路で必死に考える。葉月は私だとわかっていないし、私自身も声を発することが出来ないから知らせることは出来ない。耳から煙が出そうになったところで、は不意に“それ”に思い当たった。
(そっか。夢なんだわ、これ)
夢以外に、有り得ない。
なんだなんだ私ってば馬鹿だなぁ、なんて苦笑してみる。猫的にどんな表情になったかは、わからないが。
(だったら、とことん猫になってみようかな)
「ニャー、ニャー」
かわいらしく鳴いて、上を見上げる。
そう…そこにいるのは、クラスメイトの葉月珪で。…それは同時に、自分の密かな想い人でもあった。最近、やっと普通に会話できるところまでもっていったばかりで先は長いけれど、今は夢。そんなことは関係ない。それに、夢とはいってもこんなに近くに葉月がいるのだ。…猫としてなら、いくらでも行動に出られる。
「…ん?どうした?」
急に態度を翻し、ぺろぺろと手の甲を舐めるにくすぐったそうに話し掛ける。
「なんだお前、急に…ばか、くすぐったいだろ…」
そう言いながら、ふわりと抱き上げられておでこをこつんとぶつけられる。は、耳まで真っ赤に――無論錯覚だが――なった。
「珪くーん、次の撮影お願いしまーす」
「…あ、はい。今行きます」
床の上に、ちょこん、とを置いて「じゃあな」と立ち去ろうとする。
「ニャ、ニャー、ニャー」
慌てて走り、足にまとわりつく。今葉月に置いていかれたら、本当にどうしたらいいのかわからない。どうせ夢なら、誰だかわからない人よりも葉月の側にいたい。
「…気をつけろよ、お前。転ぶだろ」
自分のことを言っているのか、のことを言っているのかはわからない。だが、その足を絡ませた隙に、はヒラリと肩の上に乗った。そうして、ぎゅ、と爪をたて、てこでも動かない体勢に入る。
「うーん、困ったねぇ」
「下りないんだ、こいつ…俺は別にいいけど…」
次の現場に、肩の上に猫を乗せたまま現れた葉月に、カメラマンが渋い顔をした。
「…まぁ、かわいい猫だし、そのままでもいいか…」
「あ、そうですか…ありがとうございます」
ほっと安心した口調で言った葉月に、が擦り寄る。
「…お前、本当に何なんだ?俺に何か用でもあるのか?」
言葉の端々は怒っているようにも聞こえるが、口調は怒っていない。いや、寧ろ愛情がこめられていた。
(…葉月って、猫とか…好きなのかな。)
こんな夢なら、覚めなくてもいいのに。
再び葉月の腕の中におさまりながら、はそんなことを考えていた。





「お疲れ様でしたー」
ふ、と気づくと、撮影は終わっていた。軽く自分の世界にトリップした隙に、ちゃっちゃか済んでしまったらしい。
「…俺の仕事は、今日はこれでおわり」
言って、に顔を寄せる。
「だから、お前ともこれでお別れな」
優しく小さな頭を撫でながら、そう言って去ろうとする。
(〜〜〜〜いやっ!!)
伸ばされた腕をつたい、再び肩の上に陣取る。今度は牙も使って、どうにも離せない状態になった。
「あはは、珪くん、よっぽどその猫に気に入られてるんですね」
猫を貸し出している、動物タレント事務所の男が苦笑して言う。
「なんなら一晩貸し出しますよ」
「え?…俺、別にそんなつもりじゃ…」
「いいですよ、この状態でひっぺがしたら珪くんの洋服も破れちゃいますから。明日、この時間にココに」
そう言って紙切れを渡すと、その男はさっさとどこかへ行ってしまった。撮影が終わった、とスタッフも去り、やがてそこには葉月とが残るのみとなった。
「…わかった。一日、だけだからな」
そう言って、の鼻面をはじく。面倒くさそうに言ったようでいて、言葉の端には隠しようのない嬉しさが滲み出ていた。…やはり、猫が好きなのだ。
(うん。…夢が、覚めるまでだけだから)
小さく寂しさを感じながらも、は小さく鳴いた。





「…さて、と。明日も早いから、そろそろ寝るか」
帰宅後。「お前、これでいいか?」と言いながら、葉月はの前に猫缶を開けて置いた。普通は常備しているようなものでもないから、野良猫にでもあげているのかもしれない。ちょっとドキドキしながらもそれをは大人しく食べ、一緒にTVを見て、お風呂に入って(外で待ってただけだけど)。
時刻は12時を回ったところ。時の経つのがこんなに早いと感じたことは、いまだかつてなかった。
「…こいよ。」
よく考えれば、は未だに名前を呼んでもらっていない。それは当たり前なのだが、なんとなく悔しい。
「ふにゃっ」
ちょっとへどを曲げて、そっぽを向いてみる。それで通じるとも思えないが、不満はわかってもらえたらしい。
「…おい、どうした?」
振り向かない。
「…何が不満なんだよ」
ぎゅ、っと抱きしめられて、心臓が飛び上がる。猫なのだから抱きしめられても当たり前なのだが、やはりドキドキがとまらなかった。
「そうか…お前、もしかして名前呼んでほしいのか?」
そのものずばりの回答に、かえって驚いてしまう。そりゃそうか、事務所では名前で呼ばれてるはずだもんなあと続ける葉月に必死に伝えようとするが、それを教える術をはもっていない。
「…ぅにゃ…」
哀しげに一声鳴く。すると、葉月が一旦を離し、紙とペンを持ってきて何やら書き始めた。
「…あいうえお表、作ってみた。お前、これ、読めるか?」
読めるわけがない。…普通の、猫ならば。
「……、読めるわけ、ないよな。何やってんだ、俺」
ぼそりとそう言って、せっかく書いたソレを捨てようとする。
「にゃっ」
「? 何…」
紙に飛びつき、くわえるとそのまま葉月の足元へ持ってくる。葉月が呆気にとられていると、その猫はあいうえお表の上に順番に手を置いていった。
「お前、すごいな。……、でいいのか?」
「にゃぁーぉ」
嬉しそうに鳴くを抱き上げ、葉月はシーツの上に転がった。
「そうか…、か。、頭いいな…。…あいつと、同じ名前なんだな。いい名前だな…」
(え?)
あい、つ?
がそれについて思考を巡らせるより先に、葉月が言葉を続けた。
「今日はもうこのまま寝るか…。おやすみ、
ぱちん、と部屋の明かりが消される。そして、口にやわらかい感触が走った。
「おやすみのキス。…なんて、な」
微かに笑みを浮かべてそう言うと、葉月はを抱きしめたまま布団の中にもぐった。
は、それがどういった事象なのかを理解するよりも先に、意識を失っていた。唐突に、眠りに落ちるよりも早く。





「……!しっかりして、大丈夫!?」
「んん…ぅあ…」
ゆっくりと眼を開ける。白い壁、白いカーテン。
「何…また、撮影現場…?」
「何言ってるの!あんた、私に散々心配かけといて、何よそのボケ方!」
「…へ?」
今、自分は確かにしゃべった。そして、横に居るのは、カメラマンではなく、自分の友達で。白い壁に白いカーテンは、撮影のセットではなく、今度こそ本当に病院のものだった。
「え…何がどうなって…」
「どうもこうもね、あんた、階段から滑り落ちたのよ!それで意識失って、病院に運ばれて、携帯のメモリで一番最初に入ってた私のところに連絡が来たの!…どれだけ心配したとっ…!」
横で涙ぐむ友人を前に、だがしかし、みのりはまだ現状を把握できていなかった。
「私…ずっと寝てた?」
「丸一日寝てたっ!」
ということは、猫になったのはその間の夢か。
夢とはわかっていたものの、やはり現実に戻されるとガッカリする。何気なく脇の小さなテーブルに目をやると、はっと息を呑んだ。
「…これ、」
「あ、葉月くんが表紙の雑誌、買ってきておいたの。が目を覚ましたら、すぐに見せようと思って。すごくいい表情してるでしょ?珍しいよね、葉月くんが笑ってる写真」
そういえば、私は一度も自分の姿を鏡で見なかった。だから毛色などはわからない。…わからないけれど、この、葉月が着ている服には見覚えがあった。
パラリ、と表紙をめくると、「葉月珪ロングインタビュー」と銘打たれたページが目に飛び込んできた。大抵は「ああ」「うん」で済んでいる中、珍しく多くを語っている部分があった。
『じゃあその猫、急にころころ性格が変わっちゃうの?』
「…ああ。なんか、寝る前までは懐いてたのに、朝起きたらひっかくし」
『化け猫…とかそういうことかな?』
「おい、そんな言い方するなよ。俺、あいつのこと気に入ってたんだ」
『そっか、ごめんね。名前とかはつけてたのかな?』
「ああ。その猫、自分で名乗ったから」
『…葉月くん、それは…えっと、どういう意味かな?』
「だから、そのまま。自分で、って。名乗ったんだ。俺、実は知り合いに」
ぱたんっ。
突然雑誌が伏せられ、その続きを読むことは叶わなかった。
「ちょっと、目が覚めたら報告して、って言ったでしょ!さん、あなたも起きぬけに雑誌なんて…」
そこで看護師の言葉が止まった。
「ゆっ…夢、じゃぁ…なかったんだ…」
ぽろぽろと、涙が頬を伝う。何だか例えようもなく嬉しかった。嬉しい、とも違うかもしれない。…夢じゃなかった。ただその事実だけが、染み入るようにゆっくりと胸の中へ入ってきた。
「看護師さん…ごめんなさい、これから気をつけ…ます」
「わ、わかればいいけど…。すぐに先生が来ますから、身支度を整えて置いてくださいね」
泣きながら謝るに、看護師は困惑しつつも部屋を出て行く。それを見送ってから、友人が心配そうに聞いてきた。
、どうしたの?」
「ん…」
顔を上げて、笑って言う。

「ちょっと、楽しい夢を見てきたんだよ」


…夢の続きは、きっと。



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