ひねもす、君と。





「…っは、は…くそ、情けねぇ…」
ごろりと寝返りをうって前髪をかきあげると、萩原は自分に毒づいた。
(満足に体も動かせやしねぇ…)
枕元の携帯を手に取り、虚ろな眼で時刻を見やって嘆息した。…閉め切った部屋の中では感覚が狂う。それにしたって、
「もう…朝かよ…」
眠れぬまま夜を明かしてしまった。その事実がまた、余計に疲労を感じさせる。
(とにかく…松田あたりに休むって連絡を…)
力の入らない指で短縮ダイヤルを選び、なんとか通話ボタンを押す。
(あ…やべ…)
呼び出し音を聞いている内に、ふいにぐにゃりと視界が歪み、萩原はそのまま携帯を取り落とした。
『…おい、萩原?萩原!』
松田の呼びかけは、既に意識を失った萩原の耳には届かなかった。





(……なんだ…?)
どこかから漂ってくる、鼻孔をくすぐるにおい。そのにおいにつられるように、萩原はゆっくりと目を開いた。
「…っ、……?」
広くもない部屋の中、キッチンの隅に誰かがいるのが目に入る。誰だ、と呼びかけようとして、声が出ないことに気付いた。
(こいつも風邪のせいか…)
水を飲もうと身を起こしかけて、先ほどより随分体が楽に動くことに気付いた。眠る前までは、右手を動かすことすらままならなかったのに。
「研二、目、覚めたの?」
ふいに頭上から降ってきた声に、ゆるゆると顔を上げる。まじまじとその顔を見つめ(たっぷり10秒はあっただろう)、萩原は嗄れた声でぽつりと呟いた。
「…、何してんだ?」
「随分なお言葉で」
自分でも、おかしなことを言った自覚はあった。だが、ようやく戻ってきた記憶では、確か最後に電話をしたのは松田のはずだ。松田がここにいるならともかく(エプロンつけて立ってたりしたら指差して笑うところだ)、なぜがここにいるのだろう。
「…何で私がここにいるかって?そんなの答えは一つしかないでしょ。松田くんに呼び出されたのよ」
じろりと萩原を見やると、そのまま人差し指で萩原の額をつんっと押した。
「げっ…」
ただそれだけのことで、抗う間もなく枕にぽすっと着地する。
「…なんか萩原がヤバそうだから行ってやってくれって。昨日の愚行もぜーんぶ聞かせてもらいました!」
「き…のう…?」
まだ微かに痛む頭に手をやり、目を瞑る。…徐々に思い出していくにつれ、萩原の顔から血の気が引いていった。
「あー…その、昨日は…」
言い訳を並べようとした萩原を視線で制し、はとうとうと述べていった。
「昨日は大きな仕事があったから疲労しきっていたのに、誘いに乗って勤務後居酒屋へ。一軒だけならいざ知らず、誘われるがままに次から次へハシゴ。寒風の中を薄着で歩き回ったもんだから、途中からはくしゃみ鼻水の大洪水だったらしいわね。それでもやめずに、なんだか綺麗なお姉さま方とも飲んでたとか」
(松田の野郎、ンなことまでに言いやがったのか…!)
普段の仕返しのつもりなのか、どうやら本当に最初から最後まで全部に伝えたらしい。何も好きで行ったわけではなく、付き合いだということくらいもわかっているのだろう。それ以上そのことに対して言及することはしなかった。
「…挙句、電信柱の影でゲーゲーやってたって?それにずっと付き添ってた松田くんがかわいそうってもんよね」
心の底から呆れたように言って、パタパタとキッチンへと姿を消した。
(俺だって…滅多にそんなに飲みゃしねーんだけどなぁ)
酒は飲んでも飲まれるな。弱い方ではないし、羽目を外すタイプでもない。松田がいたから安心したのか、滅多にない山を片付けた自分に酔っていたのか。とにもかくにも、昨日の自分は少々おかしかった。挙句に風邪を引いてぶったおれるとは、情けないことこの上ない。
「…っと、水」
枕元に水差しがあることに気付き、コップに移さぬまま直接口をつけて飲む。が見たらまた文句を言われそうだと思いながら一気に飲み干し、熱を測ろうと額に手をやる。そこで初めて、自分の額に何か付いていることに気付いた。
「なんだ…?」
「あ、そろそろ新しいのに変えた方がいいかな」
キッチンに行っていたが戻ってくると、それを萩原の額からはがしとる。床に転がっているパッケージは、
「…『お徳用!お子様の熱もこれでばっちりがっちり下がります』?…胡散くせーな。しかもなんだこれ…」
アンパンマンの柄が付いたそれを拾い上げ、引きつり笑いを浮かべる。自分がこんなものをつけて寝ていたのかと思うと、もはや笑うしかない。
「文句言わないの。ほら、新しいのつけるから」
「ゲッ、んなもんいらねーよ!」
抵抗しようとした萩原を押し倒すとその上に馬乗りになり、は萩原の前髪をかき上げた。
「…ってば、大胆なことすんのね」
「下らない冗談に付き合ってる暇はないの。…はい、オッケ!」
「つめっ…」
ひやりとした感触に、鳥肌が立つ。しっかり貼れたのを満足げに見てから、はベッドを降りて再びキッチンへと戻ってしまった。…さっきから忙しい。
(…こんな状態じゃなきゃ、なぁ……)
あんなおいしいシチュエーション、逃しゃしないのに。
残念ながら今は、まだ自由に体を動かすことがままならない。昨日の晩とは比べものにならないが…と思いかけて、はたと気付いた。
「…おい、!」
「なにー?」
「俺の服……」
そう、自分は昨日、スーツのままベッドへ倒れこんだはずだ。だが今は、しっかりと寝巻きに着替えている。…いや、着替えさせられている。
(まさか…がやったのか…?)
柄にもなく、少々取り乱して聞いた萩原に、は振り向くことすらせず答えた。
「松田くんにここまで送ってもらったとき、ついでにやってもらった」
「……あ、そ…。」
松田が俺の着替えを…?
あまり想像したくない答えに、萩原は首を振ってその考えを打ち消した。考えないことにしよう。
「…はい、できたよ。たまご粥」
「へ…?」
ほかほかと上がる湯気の向こうで、がにっこりと笑って言った。
「これ作ってたの。風邪引いてるときには、あんまり刺激の強いもの食べない方がいいと思って。でも栄養はとらなきゃいけないしね」
そう言って、ベッドサイドにたまご粥を置くと手早くエプロンを外す。
「じゃあ、もう大丈夫ね。冷えピタは、ぬるくなったら取り替えて。お粥はまだ鍋の中に入ってるから、おかわりするなら自分で…」
「ご冗談を。」
「は……?」
ぐ、と病人らしからぬ腕力で手を引かれ、はベッドの上にどさりと座り込んだ。
「俺、病人なんだけど?こーいう場合って、お約束のアレでしょ」
「…それだけ力あれば、十分に一人で食べられると思うけど」
再び呆れ声を出したに、今度は萩原も呆れたように言う。
「何言ってんだよ、口移しに決まって」
「風邪で脳までやられたみたいね。ご愁傷様」
「うそうそ。今のはジョークだって」
立ち去ろうとしたの袖を掴み、萩原は慌てて言った。先ほどを引き止めたことに全体力を使ってしまったため、今はもう腕力で無理やり止めるなんて真似はできない。
「…ったく」
仕方なく、匙で粥をすくう。このままこうしていても、自分が行動に移すまではなんやかやと言い続けるのだろうからさっさと終わらせてしまおうと思ったのである。
「はい」
「! うあちちちちっ!ちょっ、予備動作予備動作!フーフーとかさ。いきなり突っ込まれたら火傷するだろ!」
「……確か小型扇風機が実家の押入れに……」
「そこまで拒否するのか…」
さすがに傷つくぞ、と萩原がうな垂れていると、観念したようにが言った。
「わかったから…。今回だけね」
「! ま、」
マジで、と聞き返そうとした次の瞬間。
「フーフーフー、はいあーん!」
「ごふっ」
の高速技に、再び萩原は口腔内大騒ぎになっていた。
「…甘いよ、研二。」
「はい…風邪如きで甘えた俺がバカでした……」
結局自分で匙を持ってしくしく食べつつ、萩原はと二人で過ごすのが本当に久しぶりであることを思い当たった。
(最近…仕事尽くめだったからな……)
簡単に休暇を取れる仕事でもない。彼女の同世代からしてみれば、には随分と色々な面で我慢してもらっている。
「……なぁ、
ベッドサイドに座り、横で萩原が食べるのを黙って見ていたにちょいちょいと手招きをして言う。
「感染さねーからさ。…ちょっとだけ、イイ?」
「研二…。あのね、今、自分が何でベッドに居るかわかってる?」
「わかってるよ」
ぎゅ、と。
ベッドに座ったまま、のことを抱きしめる。
「…を、抱き締めるため。」
そのまま、重力に逆らうことなく倒れこむ。
「……バカ?」
耳元でぼそりと呟かれたの言葉に、悪びれることなく答える。
「バカで結構だよ。…うまかったぜ、たまご粥」
そう言うと、の顔がぱっと輝く。
「え、ほんと?」
「ほんと。…こんな味だった」
「んっ……!」
そう言えば自分は冷えピタをつけたままだった、情けないことこの上ない…などと思いながらも、せっかくが貼ってくれたのだからこのままでいいかと思い直す。
(…あ、思い出した)
自分が、あんな泥酔状態になった理由。
昨日は、初っ端に飲んだ酒がまずかった。腹に何も入れない状態でいきなり度のきついのを一気にやったせいで、その後が泥沼になっていったのだ。…そして、その酒を萩原に差し出したのが。
を寄越したのは、アイツなりの罪滅ぼし…か…?)
ほくそ笑みつつ、萩原は心の中でこっそりと礼を言った。





「…え。お前、あの日俺の家まで来なかったのか?じゃあ着替え…」
「? 何の話だ」
「いや…なんでも、ない。」
…どうやら、次に会った時に使えるネタがひとつ増えたようだ。




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