いつもと何かが違うとき、事を起こすべきではない。
それは古より言われてきたことであり、つまり時として真実であったことを示す。
…得てして、それでも何かを為さねばならないときのほうが多く。
今宵もまさに、それだった。





「なんで…?」
「さて、ねえ……。」
困惑した声を上げたに、友雅も返す言葉は無い。自分自身、状況がつかめていないし、ここから好転する策を考えるのは至難の業だ。
「なんで…友雅さん、ちっちゃいまんまなの…?」
時刻は6時半を回ったところだ。
普段なら、とうに本来の姿に戻っているはずの友雅が、今も自分の手のひらの上にいるのはどういうことだ。
(あまり愉快では…ないね。)
今までのことを照らし合わせれば、自分の大きさの変化は、藤姫からの力に因るものだと考えるのが自然だ。今宵は、それがない。…単純に何らかの理由があって藤姫の力が及んでいないのか、それとも鬼がそれを凌駕してしまったのか。その相違点は、僅かなようでいて大きい。
「どうしよう…今日、やめたほうがいいかなあ…」
友雅が何も言わないことで、不安を煽ってしまったらしい。しまったな、と思いつつ、それを表に出すことはしない。
「まだ、約束の刻限までは間があるだろう?殿は、夕飯を食べておいで。いつもと同じようにしていればいい。…その間に、私の姿も元に戻るかもしれないし、ね。」
戻らないだろうな、と妙な確信はあった。
けれど今、それを告げたところで悪戯にの不安が増すばかりだ。
「…はい!じゃあ、ちょっと待っててくださいね。お風呂のあと、友雅さんのご飯も持ってきますから!」
「すまないね」
そっとベッドの上に下ろされ、そのままを見送る。
窓の外を見上げると、昼間は晴れていたはずの空は、いつの間にか雲に覆われていた。星のひとつも、見えはしない。
「…やれやれ、面倒だね。」
苦笑しつつ、足を組みなおす。
…どうやら、事態は簡単には運んでくれないようだった。





やはり、友雅が元の大きさに戻ることは無かった。
扉を開けた瞬間の、の落胆と安堵の混じった表情が、少しおかしかったことは黙っておこう。
「時に、殿」
「はい?」
風呂から出たは、私服に着替えていた。普段ならぱじゃま、という寝衣に着替えているのだが、これから出かけるのだから当然だ。
「以前から気になっていたのだがね。君の髪から香るそれは、何の香だい?」
「香……?」
きょとん、としたように返し、ああ、と納得したように言った。
「昔は、お洋服とかに香りをつけてたんですよね。そういえば、友雅さんもいい香りでした。あれはなんていう香ですか?」
(…おやおや。)
問いかけたのはこちらだというのに、問いで返されるとは。本人に言葉遊びのつもりは無いのだろうが、自分相手にそうしかけてくる女性は今までいなかった。新鮮な面白さに、友雅がくつくつと笑う。
「? 友雅さん、何か変なこと言いましたっけ、私…」
「いや、なんでもないよ。…つくづく君は面白い姫君だね。いや、姫君ではないからこそなのかもしれないが…」
そんな君にだからこそ、惹かれるのだろうか。
…変わった毛色の猫のように、愛でたいと思うのだろうか。
(まさか私が、ね…)
…きっと、一時の感情に過ぎないのだ。
一緒にいる期間が長かったから、ほんの少し、情がわいただけ。
先日抱いた感情も、それに相違ないのだ。特殊な環境で出会った男女は恋に落ちやすいというが、まさにそれではないだろうか。自分自身、環境に酔わされていただけ。我ながら言い訳がましいとは思うが、…そもそも、情熱を知らない自分が誰かを強く想うことなど、有りはしない。
見上げた瞳は、友雅がなんと言葉を続けるのかと、大きく開かれきらきらしている。
「…そう見つめないでおくれ。君の瞳に惑わされて、香の話どころではなくなってしまうよ。」
「え、あ、はい、すみませ、ん…?」
よくわからないままに謝ったに、また笑みがこぼれそうになる。これでは本当に話が進まないので、それを押し隠して友雅は続けた。
「侍従、という。…君が気にしていた、香の香りだよ」
「じじゅう?」
「秋風を思わせる香で、黒方ほど重々しくはなく、梅花のように晴々しくもない、少し控えめな香りだ。私にぴったりだろう?」
「えー…」
納得いかない、というに笑いかけ、言葉を続ける。
「君は、いつから気付いていたんだい?」
「え、あ、そ、その…は、初めて友雅さんと…その…」
急にしどろもどろになったに、友雅がまさか、と小さく呟いた。
「…君を、初めて抱きしめて眠った夜…かい?」
「ひあああ、そ、そうですっ」
ばばばっと無意味に手を振って言ったに、友雅は僅かながら驚きを隠せずにいた。…まさか、自分と全く同じ時だったとは。
「…そうか。いや、すまなかったね、何でもないよ。それでは今度は、君の香を教えてくれるかな」
僅かに表に出てしまった驚きを抑え込み、を促す。
「あ、はい。シャンプーとリンス…っていうんですけど。香り…うーん、果物、かなあ?フルーツの香りって書いてあったんで…」
の言葉の半分ほどは理解できなかったが、とりあえず果物の香りだということはわかった。
「柑橘類…かい?」
「あ、多分それです。パッケージもオレンジ色だったし」
「橘の」
「え?」
言葉を区切った友雅に、がきょとんとする。
「橘の、香りかい?」
口元に笑みを浮かべて言った友雅に、が瞬時に真っ赤になる。
「………………っ!!」
それは。
「ちょっ…友雅さんっ!!」
「ふふっ、すまないね。ほんの戯言だよ」
「……もうっ」
ぷい、と横を向いた様を微笑を浮かべて見つめる。…肩の力は、抜けたようだ。
殿。…そろそろ、行くかい?」
「……っ、はい。」
友雅の言葉に、きゅ、と唇をかみ締めて。
「行きましょう」

友雅がやってきた、と初めて出会った、あの場所。
……時の、泉へ。



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