雨のにおい





君は、僕が知らないことをたくさん教えてくれる。君は、僕が知らずに通り過ぎたものを、指を差して示してくれる。





「…あら」
ふい、と窓の外を見やり、ソフィーが声を上げた。そのまま窓際まで行くと、顔を出して空を見上げる。
「どうかしたのかい?」
ソフィーの後ろから窓枠に手をかけると、ハウルも同じく空を見上げる。先ほどまでは晴れ渡っていたのに、空はいつの間にか暗くなっていた。今にも雨が降り出しそうだ。
「ソフィー、どうして雨が降るってわか…」
「ちょっと待ってて。洗濯物、入れなきゃ。マルクルー!マルクル、手伝って!」
軽くかがんでハウルをかわすと、ソフィーはそのままぱたぱたと走っていってしまった。今は構っている暇は無い、先に洗濯物を入れなければ、ということらしい。
「僕は洗濯物以下か」
拗ねたように言って、どさりと椅子に腰をおろす。濡れたら濡れたで、魔法を使って乾かせばいい。以前そう言ったら、ソフィーは「太陽の光で乾かす」ことに意味があるのだと笑いながら言っていた。「お日様のにおい」というのを教えてもらったのも、そのときだ。
(…今度は、)
何を教えてもらえるのだろう。君は、僕が知らないことをたくさん教えてくれる。君は、僕が知らずに通り過ぎたものを、指を差して示してくれる。
自然と頬が緩み、唇が笑みの形を作る。早く戻ってきておくれ、僕のソフィー。
ソフィーが聞いたら、また何か文句を言いそうな台詞を頭の中で呟く。聞かれなければ、怒られることも無い。そんなことをつらつらと考えていると、洗濯物を両手いっぱいに抱えたマルクルがソフィーと共に階段から降りてきた。自分より頭一つ分高く積み上げられた洗濯物は、完璧に視界をふさいでいる。
「マルクル、大丈夫かい?」
ひょい、とそれを抱えてやると、マルクルはぷはっと息をついた。布の大群に、呼吸もふさがれていたらしい。
「大丈夫です、ちょっと大変だったけど」
同じく山のように洗濯物を抱えたソフィーが、後に続く。手を貸そうとしたハウルを視線で制すと、テーブルの上にどさりと下ろした。
「お疲れ様、マルクル。お茶にしようか?」
ポットを手にして言ったソフィーに、マルクルはふるふると首を振った。目を瞬かせている。
「なんか眠くなっちゃった…。ソフィー、僕昼寝してくる。ヒンはどこ?」
「おばあちゃんと一緒に寝てると思うわ」
「ありがとう」
目をごしごしこすりながら、ふらふらと立ち去る。本当に眠いらしい。
「ふふ、まだまだ子供ね。おばあちゃんも寝てるし…お茶は2人分でいいわね」
言いながら、茶の葉をいつもより少なめにポットに入れる。面倒くさそうにぶうぶう言うカルシファーをなだめすかし、ソフィーはお湯を沸かし始めた。
「ソフィー…君、僕から話を切り出さないと、いつまでたっても話してくれないんだね」
「え?」
すっかり拗ねてしまったハウルを見て、ソフィーはきょとんとした。何のことだろうとしばし考え、ようやく先ほどの「どうして」の問いに自分が答えていないことに気づいた。
「ごめんなさい、ハウル。そんなつもりはなかったのよ」
椅子を引いて、ハウルの隣に腰をおろす。そっぽを向いているハウルを見て、苦笑した。全く、忘れていたこと、放っておいたことで拗ねてしまったのだろうが、マルクルと2人、どっちが本当の子供なんだかわかりゃしない。
「におい、よ」
「……え?」
ふいに切り出したソフィーに、ハウルはゆるゆると振り返った。微笑を称えているソフィーと、ぱっちり目が合う。
「さっき、窓をずっと見てたわけではないのに、雨の気配に気づいた。それがどうしてか、知りたいんでしょう?」
「…うん」
水滴がぽつぽつと当たり始めた窓を見て、ハウルは素直に頷いた。先刻、ソフィーは窓を背にして座っていた。窓は開いていたし、ハウルは窓が見える位置に座っていたのに、何も感じなかった。それなのに、ソフィーは雨の気配を察知したのだ。
「ねえハウル、ちょっと来て」
ソフィーは窓際まで行くと、雫の滴る窓を、細く、かろうじて風が入り込んでこられるほどに細く開けた。
「なに?」
「ここ。ちょっと、来て」
言われるままに、風の入り来る窓辺に近づく。すると、ソフィーが「目をつぶって」と言った。
「目を?」
「目を閉じて、耳をすませて。雨の音、聞こえる?」
…聞こえる。窓に当たって、水滴が弾かれる音。水の重みに耐えかねて、葉が雨粒をぱたぱたとさらに下の葉に落とす音。いつもは聞こえるはずの、鳥の鳴き声は聞こえない。静かに、ゆっくり、雨の音が聞こえる。視界がなくなったことで、他の神経が研ぎ澄まされていた。
「じゃあね、思いっきり息を吸ってみて」
すぅっと、鼻から息を吸い込む。…その瞬間、ハウルははっとして目を開けた。
「…これが、雨のにおい?」
なんとも言えないにおいが、微かに鼻をつく。それは今までかいだことの無い、感じたことの無い、新鮮な、それでいてどこか懐かしいようなにおいだった。
「そう。これが、雨のにおい。雨が近づくとね、このにおいがするの。私はさっき、それを感じたのよ」
そう言うと、ソフィーはにっこり微笑んだ。
口で説明するよりも、自分で感じてもらったほうが早い。そう思ってのことだったが、しっかり感じ取ってくれたらしい。
「すごいや…ソフィー、僕、またひとつ君から教えられたね」
室内に雨が入り込むのも構わず、ハウルは窓を大きく開けた。自分の知らないものが、まだこんな近くにあったなんて。驚きと喜びとがないまぜになった表情で、ハウルが嬉しそうに言った。
「そんな大したものじゃないわ。私は、どうしてこのにおいがするのかも知らないし」
きっと、きちんとした説明のつく現象なのだろう。自分はそれを知らないし、別段知りたいとも思わない。それでも、
「私、このにおい、好きなの」
雨が降ると、光がどこか優しくなる。きらきらして、ゆるやかで、やさしい時の中が心地良い。それを、雨のにおいは教えてくれる。
「僕も、好きだ」
君の瞳を通して見る世界は、こんなにも美しい。
「おい!沸騰して気化して、お湯なくなっちまうぞ!!」
「あっ、いけない!ありがとう、カルシファー」
「オイラは構わないけどね」
ケッ、と言ったカルシファーから、ソフィーは慌ててポットを取り上げた。
(…構わないなら黙ってりゃいいのに)
素直じゃない悪魔に、ハウルは苦笑した。本当に構わないと思っているなら、わざわざ教えてくれたりしないだろう。
「ハウル、お茶入れるわね」
「うん。…ありがとう」
君は、僕が知らないことをたくさん教えてくれる。君は、僕が知らずに通り過ぎたものを、指を差して示してくれる。
(ありがとう…ソフィー)
きらきらして、ゆるやかで、やさしい時の中が心地良い。
こぽこぽとお茶を注ぐ音を目を閉じて聞きながら、ハウルはなんとも言えない幸せをかみしめていた。




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