「お兄ちゃん」 慣れない響きに、照れくさくて顔を背けてしまう。初めて誰かに頼られたことに対する、喜びと戸惑いがごっちゃになっていた。 …自分に向けられた明確な敵意を敏感に感じ取り、泣き、叫び、己の存在を悪だと言って責め続けた小さな体。 それを知った夜、自分にできたことは、手を差し伸べることだけだった。うまい言葉は見つからないし、どうしたいのかすらもわからなかったのだ。 けれど、泣いてほしくなかった。 …涙の跡がいくつも残ったまま、自分を「お兄ちゃん」と呼んで笑ってくれた、あの晩のことは。 きっと、忘れることはできない。 『だからねっ、聞いてるの、お兄ちゃんっ!?』 「ん?ああ、聞いてるよ。追試が難しすぎるっていうんだろ?」 『由加里のお父さんのクビの話よ』 「…いつの間に」 優秀な後輩をぼんやり思い出しながら、受話器を左手に持ち変える。現役女子高生のマシンガントークに追いつくのは、高遠でなくとも至難の業だ。 『ねぇ、いつにも増して声に張りがないけど大丈夫?ご飯食べてる?』 「…食べてるよ」 いつにも増して、というのがひっかかるが、1言い返せば10になって返ってくるのは目に見えている。ここは、大人しく返事をしておこう。 (…あんなに、小さかったのに) 家に来たての砂波を見たとき、生体不詳の小動物だと思ったのが懐かしく思い出される。短い足で、必死に自分のあとについてきた幼い少女。いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。 再び聞こえた『聞いてるの!?』の声に、ゆっくりと意識を引き戻した。 「由加里さんの父上のクビだろ」 『カメレオンの舌の長さについてよ』 「…そうか」 どういう展開をしたのだろう。 気にはなるが、それをもう一度繰り返されるのは勘弁してほしかったのでそのまま流した。その後も、よくもまぁ話題が尽きないものだと呆れるほどよく喋った。 『〜♪〜〜♪』 「? なんだ、今の音?」 電話の向こうから聞こえたメロディーに、高遠が眉をひそめる。砂波の『ちょっと待ってて』の声に、大人しく待つことにした。 (…昔、聞いたことがあるな) 砂波の話し声が、遠くに聞こえる。携帯の着信音だったのだろう、ということは高遠にも察しがついた。 「君を守るため…そのために生まれてきたんだ…?」 拍子をつけながら歌ったあとに、歌詞のクサさに苦笑した。自分のような者には、縁がない曲だ。 『もしもし?お兄ちゃん?』 「ん」 電話が終わったのだろうか、『待たせてごめんねー』と暢気な声が続く。 「…砂波、一つ聞いていいか?」 『なに?』 「さっきの曲って、結構昔のじゃないか?珍しいな」 流行に敏感な女子高生だ。着信音もどんどん変わるだろう、と思ったのだが。 『え……』 だが、何の気なしに聞いた高遠の言葉に、砂波は黙り込んでしまった。 (しまった) 砂波も年頃だ。男の一人や二人、好きになって当然だろう。 「あ、いや、なんでもな…」 『繋がって無くたって、そーいうのいいなって思っただけ!じゃーね!』 ガチャン、と唐突に切れた電話に、高遠は呆気にとられた。一体、なんだというのだろう。 「…ま、いいか」 眠たげな目のまま、受話器を戻す。 …このいい加減さが、高遠三次である。 「…ふん、だ」 以前、何かの漫画で読んだことがあるのだ。 『兄貴ってのは、あとから生まれてくる弟や妹を守るために先に生まれるんだ』と。それが、あの歌詞にシンクロした。だったらいいなと、そう思ったのだ。…それだけだ。あいにく、他にあてはない。 …大泣きしていた晩、「帰ろ」と言って自分の手を引いてくれた三次。今も鮮やかに思い出せる、あの夜の月。 きっかけをくれたのは、三次だった。兄達に受け入れられるための、きっかけを。 「…みんな大好き」 そう呟くと、砂波はへにゃりと笑った。 …今日もまた、あの曲が聞こえる。 ---------------------------------------------------------------- 2005.4.13 BACK |