ばいばい、だいすきなひと。





やわらかく微笑む彼女の笑顔が、愛しくて。
「この手で守りたい」
…そんな、自己を顧みない大それた願いを持った。けれどオレは、想いを自覚すると同時に、それに蓋をして沈めてしまった。
怖かったんだ、彼女に拒絶されることが。怖かったんだ、アイツを傷つけることが。
…深く、深く。
自分ですら見つけられないほど、深く。





「新一」
「あ?」
聞き慣れた声に、首だけを回して振り返る。見ると、蘭が鞄を手に走ってきていた。
「一緒に帰ろ」
「…ああ」
周囲から聞こえる、はやし立てる声。蘭が赤くなりながら応戦しているが、満更でもないのは誰が見ても明白だった。
(…いつからだろう)
そんなとき、自分が必ず第三者の目で見るようになったのは。
「…もう!帰ろ、新一」
「あ、おぅ…」
蘭に腕を引かれ、ようやく当事者としての意識を取り戻す。
…教室から出る瞬間、視界の端に映った「彼女」に、とっさに蘭の腕をふりほどきそうになった。
「? どうしたの、新一」
微かな抵抗を感じたのだろう。だが既に、その時には教室から大分離れていた。
(…何故?)
わからない。わからないけれど。
(戻りたい)
教室に、戻りたい。
「いや、なんでもない。帰るか」
「うん!」
…どうして、気持ちと行動は一致しないのだろう。
そんな思いを、“事件解決のヒントになるかもな”と自分で誤魔化す。
…ぎりぎりのバランスで保たれている、理性と直情の天秤が大きく傾いだ。…わかっている、倒れるのは時間の問題だと。





「苦しいの」
「苦しい?」
「恋って、もう少し楽しいもんだと思ってた。…こんなに苦しいものだなんて、思ってもいなかったの」
そう続けたに、快斗は黙って先を促した。
「好きな人に、好きな人がいるってわかってて。…両想い、かもしれない。苦しくて苦しくて、息ができなくなりそうで…」
涙がこぼれるのを防ぐかのように、一気に紅茶を飲み干す。…泣きそうな笑顔でこちらを見る彼女の視線を、直視できなかった。
触れた瞬間に砕けてしまいそうな、危うい笑顔だ。
「…知ってるよ。工藤、新一だろ?」
その名を聞いた途端、の表情が変わる。…ポーカーフェイスを気取るのは、なんと難しいのだろうか。ともすれば、自分がと同じ顔をしてしまいそうになる。
「…知ってるの?」
「腐れ縁てやつだよ。最近は会ってねーけどな…」
磨かれていない窓に、大粒の雨粒が当たる。…汚れが、黒い涙のように流れていた。自分の代わりに泣いているようだ、とそんなことを考えてから首を振る。…バカバカしい。
「…てことはあれか、ライバルは蘭ちゃんか?」
「…一方的なものじゃ、好敵手とはいえないよ」
伏し目がちに言ったを横目に見て、再び窓の外へ視線を飛ばす。そこで快斗は、息をのんだ。…まさにその二人が、傘を差して歩いてきたのだ。
(…あいつ、バカじゃねーのか?)
なんて顔をしているんだろう。一生懸命笑顔で接している彼女が、かわいそうすぎる。…けれど。
(あーあ…)
こういった問題は、当人以外、周囲の方が早く気付いてしまうのだ。蘭と歩いている新一、快斗の前に座っている。…鏡に映したみたいに、同じ表情をしている。

「…なに?」
自分を見て欲しい。自分だけの君でいて欲しい。…子供じみた独占欲は、封じ込める。叶わぬ夢ならば、せめて、どうか。
(笑っていてほしいんだ…)
君には、笑顔が似合うから。いつでも、最高の笑顔でいてほしい。大好きな君だから。
「行くぞ」
「え?あ、うん…」
店を出る快斗につられるように、も席を立つ。…汚れの流れた窓からは、微かに青空が見えていた。





崩したくない平穏と、崩したい日常。板挟みの心が悲鳴を上げている。
「…私から、言わせるの?」
「え…」
一人で掃除をするには無理のある、広い自宅。雨上がりの涼やかな空気の中、新一と一緒にはたきを掛けていた蘭が、唐突にそう言って俯いた。
「…私から言わせるの、って聞いたの。なに言ってるか、わかるよね?」
「…わから、」
ない。
そう続けようとして、言葉を切る。…胸の奥深くで、無理矢理閉められていたぼろぼろになったふたがゆっくりと開いていく。封じ込めていた想いが、あふれだす。
…怖かった、彼女に拒絶されるのが。そして、怖かった、コイツを傷つけるのが。
(…今、)
このときを逃してしまったら、自分は蘭を決定的に傷つけてしまう。癒えない傷を負わせてしまう。傷付けたくない想いで、彼女を傷付けてしまう。
「…いや、わかるよ。ごめんな、蘭。…オメーに、こんな思いさせちまって。オレは、」
ぐっ、と意を決して、真正面から蘭を見つめる。…蘭は、泣くでもなく、笑うでもなく。ただ、穏やかな表情を浮かべていた。
「…いいよ、続けて」
「…オレは、ずっとオメーのことが大切だった。それは今も、変わらない。…けど、」
そこで蘭は、すっと腕を伸ばして新一の口をふさいだ。ふいをつかれて黙った新一から手を離し、蘭は静かに言葉を綴った。
「いいよ。もう…いいよ。これ以上、新一のそんな表情を見ていたくない」
大好きなあなただから。そんな表情はさせたくない、最高の笑顔でいて欲しい。笑っているあなたが好きだから。私のせいで、そんな悲しい顔はして欲しくないの。
「ありがとう、新一。新一は優しいから、ずっと言えなかったんだよね。…ありがとう」
大好きだよ。
「私、今日は帰るね。…また、明日、学校でね」
そう言って、ぱたぱたと玄関の方へと向かって走っていく。
今は泣かない。彼の前では絶対に泣かない。それは、彼の想いを踏みにじることになる。傷付けたくないと願ってくれた彼を、傷付けてしまう。
「………あ、」
扉を開けたところで、蘭が声を上げた。それにつられて、新一は伏せていた視線を、ゆっくりと上げて…

彼女を、見つけた。

「…こんにちは、工藤君。」
ぱた、ん。
扉が閉められ、静かな空間が広がる。ここにいるのは、自分と、彼女だけだ。
「あ…あぁ、よく、来たな」
なんでここにいるんだろうとか、外から扉を閉めたのは誰なのだろうとか。考えるべきことは山のようにあるのに、自分が今考えていることは、たった一つだけだ。
…怖がっていたら、前に進むことはできない。
「オレ」
「私」
「「話が、あるんだ。」」
調和した声は、静かな空間に響いて空気に溶け消えた。





「…雨、また降ってきたねー」
こぼれる涙をぬぐうこともせず、蘭が小さく言った。
「そうだなー」
上を向いて歩こう、涙がこぼれないように…とハミングしながら、真っ青の空を見上げて快斗が相槌を打つ。名曲が廃れないのにはわけがあるもんだなぁ、などと思いつつ。
「だいすきだから、幸せになって欲しいの」
「右に同じ」
「いつでも笑っていて欲しいの」
「右に同じ」
「…あーあ、なんだかなぁ。園子誘って、食べ放題にでも行こうかな」
「オレは白馬でも…からかってやるか」
苦笑を浮かべながら顔を見合わせ、小さく吹き出す。まったく、なんて間抜けな逢瀬だろう。
「じゃ、私行くからね」
「あぁ、オレも行く。」

空は高く、どこまでも蒼く。
…その向こうには、大好きな人の笑顔がある。



----------------------------------------------------------------
みんくさん、リクエストありがとうございました! (from 休止企画)
BACK