「様。こちらへどうぞ」 (わ…) 暖色系でまとめられた店内では、上品な雰囲気を醸し出す女性や、見るからに高そうなスーツを着た男性がすでに席に着いていた。途端に自分の存在が場違いに思えて、そわそわと落ち着きなく周りを見渡してしまう。 「…様?」 「え、あ、はい!すみません」 慌てて誘導してくれた女性の後に続く。こんなところに一人で放り込まれたら、それこそどうすればいいのか見当もつかない。 「どうぞ」 「……っ、ここ、ですか…?」 「はい」 にこりと微笑まれ、それが冗談でも嫌がらせでもないと知る。…数多の人々を差し置いて、自分が。 (こんな…真ん前に……) 目の前にあるグランドピアノに、目眩すら覚える。この至近距離で、ソメヤ教授の演奏が聴けるなんて。 「…最近は、ソメヤ様もすっかりご有名になられたでしょう?」 椅子を引きながら、やわらかな微笑みをたたえて言う。 「大きなホールを貸し切ってコンサートを開ける方だもの、オーナーもダメもとで声をかけたらOKもらえたって驚いていらして。…でも、納得。こういうことだったんですね」 「はぁ……」 よくわからないまま頷くと、それきり「ごゆっくり」と言ってどこかへ行ってしまった。途端に不安になるが、どうやら自分は教授の客人として丁重に扱われているらしい。これでオロオロするのもみっともない。 (…教授。) 心の中で呟き、ぎゅ、と両手を握り、瞳を閉じる。…そうすることで、ようやく心が落ち着いてきた。せわしない気持ちで、今日の演奏を聴きたくはない。 「…紳士淑女の皆様、お待たせ致しました。」 BGMが流れていた店内が、静かになる。ピンライトが司会者に当たると、恭しいお辞儀をして続けた。 「今宵はクリスマス。…世間は賑やかに彩られていますが、どうぞここでは心静かに、そして優美なクリスマスをお過ごし下さい。…ご紹介しましょう。今や世界に名だたるピアニスト、ソメヤシュンです」 す、と。 端に現れたソメヤは、いつもと全く変わらない姿で、そして穏やかな微笑を浮かべていた。 「こんばんは、ソメヤシュンです。メリークリスマス。今夜は、お越し頂きありがとうございます。…短い間ですが、お楽しみ頂ければ幸いです」 拍手が起こり、場に緩やかな興奮が走る。…皆平静を装ってはいるが、ソメヤシュンの演奏を生で、こんな近くで聴くことが出来る興奮を隠し切れずにいるのだ。 (…やば、ドキドキしてきちゃった) ゆっくりと。 ソメヤが歩を進め、ピアノの前の椅子に腰を下ろす。 そして、鍵盤に指を置く前に、ちらりとこちらへと視線を送ってきた。 (あ) …今、なんか、目配せされたような気がする。 そんなことを考えて、かぁぁと頬が染まった。何を考えているのだろう。これじゃあ、ブラウン管越しにアイドルと視線が合ったと喜んでいるのと同じだ。 (……ふ。) そんな様子を見て、ソメヤも表情を緩める。が何を考えているかなんて、お見通しだ。 …すぅ、と。 息を吸い込み、指を構える。 「…せつないくらい 苦しいくらい あなたに会いたかったので…」 (…っ!) は、と顔を上げる。…この、曲は。 (ラブソング、作ったことないって。…そう言ってた教授が、私のために作って、歌ってくれた曲…) 電話越しに、日本と聖アルフォンソ島とで、遠く離れた地で。…歌ってくれた、あの曲だ。 「目をそらさないで 耳をかたむけて…」 耳に響くピアノが、心地良い。 まるで自分の意思で動いているように鍵盤の上を踊っている指が綺麗だなと、そんなことを思う。…そう思うことが許される距離に、自分はいる。 わっ……!! は、自分が涙を流していたことにもしばらく気付かないまま、周りと一緒にひたすらに拍手をしていた。 「こら、どこへ行く」 「うわ」 後ろからぐいとフードを引っ張られ、はつんのめった。…演奏も終わり、さて帰るかと駅へ向かう道を歩いていたのだが。 「…ソメヤ、教授」 振り返れば、そこにいるのは先ほどまでピアノを弾いて、そして歌っていたはずの人で。 (なんか…別の人みたい) そんなことを考えてぽやっとしていると、ソメヤがはあとため息をついての手を引き歩き出した。 「え、ちょ、教授?」 「いつまでもこんなとこに立ってたら風邪引くだろ。どこか入ろう」 手袋越しではよくわからないが、どうもソメヤの姿は自分に比べて薄着な気がする。人のことばかり気にかけて、自分には無頓着なタイプだ。 「…あの、手袋」 よかったらどうぞと、そう言って自分のものを外そうとしたの手を、押しとどめる。 「…それじゃ、こうしよう」 の右手の手袋をすっと外し、自分の右手にする。…そうして、の右手と、自分の左手とを繋いだ。 「これなら寒くないだろ?」 「……っ、は、い」 こういうことを、さらりとしてしまうから困る。 大人しく手を引かれるままに、小さな喫茶店へと入った。路地裏にある、クリスマスの騒々しさからは切り離されたような空間だ。 「今日、来てくれてありがとな。嬉しかった」 「そんな!私のほうこそ、その…一番最初に、あの曲を演奏してくれたこと…嬉しかったです」 「…………うん。そのためだから」 「え?」 「に、目の前で聴いて欲しかったから。…大きなホールじゃ、どうしたって距離が出来るだろ」 (あ) 『…でも、納得。こういうことだったんですね』 頭をよぎった、あのときの言葉。…それは、つまり。 「あの…教授、その…ず、図々しいこと聞いてもいいですか」 「ん?」 ドキドキする。勘違いだったら恥ずかしい。それでも聞いておきたい。 「もしかして…私のために?」 「当たり前。」 一瞬の間すらなく、そう即答されて。逆に、が言葉に詰まってしまった。 「言っただろ。俺はやりたいことしかやらないし、しない。やっとの側にいることを許されたんだ。だったら、今度は俺の演奏を一番近くで聞いて欲しい。…そう思うのは、おかしい?」 黙ってぶんぶん首を振る。そんなに、ソメヤが言葉を続けた。 「メリークリスマス。…一緒に過ごせることを、幸せに思うよ。」 「あ…メリー・クリスマスっ…」 胸の中が、じんと温かい。…メリー・クリスマス。この一言が、こんなに嬉しいものだなんて、知らなかった。 「さて、移動するか」 「え?」 「夜景が綺麗な場所があるんだ。行こう」 の返事も待たず、手を引いて店を出る。 (ああ…誰だったっけ。) この人は、王子と言うよりもナイチンゲールのようだと言ったのは。 本当に気高く、そしてどこまでも自由だ。 「…はい!」 そんな鳥のような彼に、自分は惹かれてしまったのだから。 せめて、疲れたときに羽根を休めることのできる、そんな月桂樹の枝のようになれればいい。 あなたがそばに生きている ただそれだけで それだけで ラブレター ---------------------------------------------------------------- BACK |