(…ああ、もうこんな時間ですか。)
窓から見える夜空は、まるで切り取られたような正方形だ。そこから見える月の位置が、大幅に移動している。
手にしていたペンを一旦置くと、ナオジは大きく伸びをした。
「少し…散歩でもしますか……」
ずっと机に向かっていたせいで、体が硬くなっている。外には見回りの兵が複数いるはずだが、今は話し声もしない。…ちょうど今の時間、この近くには誰も居ないらしい。無用心だとは思うが、散歩をするには好都合だった。




月  花







何も考えずに歩き出したつもりだったのに、ナオジの足は自然とある場所へと向かっていた。…ぽつんと1つ、離れたところにあるテント。の寝所だ。
(………?)
テントの隙間から、灯りが漏れている。まさか、このような時間まで起きているのだろうか?
「…、殿?」
テントの外から呼びかけてみるが、返事はない。
「失礼しますよ」
声をかけてから、テントの帳を上げて中へ入った。
「……おや。」
どうやら、書き物をしている内に眠ってしまったらしい。は、灯りも消さず、机に突っ伏したまま穏やかな寝息を立てていた。
「全く、無防備な…」
呟き、そっと髪に手を伸ばすとが身じろぎする。しかしそれも一瞬のことで、すぐにまた寝息が聞こえ始めた。
…殿…」

……“月花”、つき‐はな。
自分の母国では、賞翫、寵愛するもののことをそう呼ぶ。
彼女はまさに、それだった。

この駐屯地において尚、彼女の髪はやわらかく、艶を失わない。指に絡みつくそれは、まるで自分を誘っているようで―――…
(…なんて。自分勝手も甚だしいですね)
彼女はただ、眠っているだけだ。己の自惚れた妄想など、知る由もない。
…寝息は穏やかだが、目の下にはうっすらとだが隈ができている。それを見て、ナオジは眉をひそめた。…ここ最近の彼女は、少々頑張りすぎている感がある。それというのも、ジークリードが挑発してからだ。ルーイのために、ジークリードのために、革命軍のために。…彼女はもはや、自分たちにとって不可欠の人材だ。
そんな彼女に、好意を寄せている者も少なくない。
「……っ、」

月や花は、多くの者に愛でられる。
…だが、彼女を愛でるのは、自分ひとりだけでいい。

このままをさらって、どこかへ消えてしまうことが出来たら。
叶うべくもない願いに、ナオジは自分を嘲笑った。
は変わらず、眠り続けている。そっと机上の灯りを消すと、室内には月光が射し込むのみとなった。それでも影が出来るほど、月の光が眩い。切り取られた夜空で、煌々と存在感を放っている。
「今宵は月が、夜空によく映えますね。…悪戯を仕掛けるには、明るすぎるかもしれません。月よりも、花よりも愛らしいあなたのことですから。恥じらいのあまり、姿を隠してしまうかもしれませんね」
だから今日は、これだけで。
―――ただ触れるだけの口付けを、頬に落とす。
そこには何の痕も残らないが、ナオジの心には、確かに小さな創が刻まれた。…嫉妬、自惚れ、独占欲。ひとつの言葉では言い表すことができない、激情を伴って。



――…殿」
「はい、なんでしょうか?ナオジ様」
数日後。
ナオジに呼び止められ、は笑顔で応じた。
「今夜は、新月だそうです。…きっと、闇が濃いことでしょう。お気をつけ下さい」
「……?はい、ありがとうございます」
よくわからないが、ナオジは自分を気遣ってくれたのだ。その思いに、は素直に感謝の言葉を述べた。
「……では」
「はい!」

(今宵、また)

…続きの言葉は、胸の内に秘めたまま。
闇色の髪を風になびかせ、踵を返すと、ナオジは口元に薄く笑みを浮かべたのだった。



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