根無し草の憂鬱





「……。」
カーテンの隙間から差し込む日差しに、目を細める。部屋の明かりは点けっぱなしだったはずだが、いつの間に消されたのだろう。
「……朝、か。」
当たり前のことを口に出し、自分に認識させる。長めの前髪をかきあげると、けだるそうに身を起こした。
「研二?起きたの?」
ひょい、と寝室を覗いた顔に、(見りゃ分かるだろ)と毒づきながら、そんなことはおくびにも出さずに笑顔で応える。
「ああ。…今朝のメニューは何?」
ふふ、と楽しそうに笑いながら、「秘密」と言って再びキッチンへ引き返していった。
「…目玉焼きとスクランブルエッグしか作れないくせに」
…そろそろ、引き時かもしれない。
枕元の煙草ケースを引き寄せると、器用に片手で取り出して火を点ける。ふぅ…と一服ついてから、ぼんやりと灰の先を見つめた。
(…そういえば)
“あいつ”に、火事になりかねないから枕元に煙草は置くなと言われていた。「お前はだらしないから」などと知った風な口を利いていたが、全くと言っていいほど不快感はなかった。決して素直ではない自分が、しばらくは言われるがままだったのだ。
「…うーん」
再び枕元に鎮座していた煙草ケースを見て唸る。…そろそろ、効果が切れてきたらしい。
「研二?ご飯できたよー」
「ん、ああ」
ベッドサイドに散らばった服をかき集めつつ、生返事を返す。壁とベッドの僅かな隙間、引き出しやタンスからも、自分の所持品は全て回収した。…もう、ここに来ることもない。
「今行くよ」





「…萩原」
「おー、おはようさん」
頭の上から降ってきた声に、へらりと笑って返す。サングラスのせいで表情は読めないが、呆れているのは声で分かった。
「…鏡見てこいよ。シャツの襟元、目立ってるぞ」
「んー?何のこと?」
「だから、口紅。べっとりってほどじゃないけど、分かる程度には付いてる」
言いながら鞄を下ろし、椅子を引く。どさりと腰を下ろしたところで、萩原がにやりと笑って言った。
「…妬いた?」
「……は?」
早くもネクタイを緩めていた手を止め、松田が間の抜けた声を上げる。サングラスの奥の、きょとんとした瞳まで見えそうだ。
「だから、口紅。妬いてくれたのかな、と思って」
(…つか、それが狙いなんだけどなぁ)
替えのシャツくらい、用意している。抜け目のない自分が、あえてこのまま出勤しているのだ。それくらいの魂胆は見抜かれてもいいはずなのだが。
「…何で俺が、見ず知らずの女性とよろしくしてるお前に妬く必要があるんだ?自分の彼女だとか、そういうのならわかるが」
「……頼むよ、松田クン」
がっくりと肩を落とし、はぁぁとため息をつく。…こういうやつだと、わかってはいたのだが。実際に食らうとまた、格別の脱力感がある。
「? だから、何だ」
「そーじゃなくてさ。そのオンナに妬いてくんないの?『おのれーっ、僕の萩原くんをっ!』みたいなさ」
「…別に」
「さいですか…」
もはやこれまで。
サングラスの奥の瞳が微かに揺らいだことには気付かないまま、萩原は席を立った。…他の同僚に煩く言われない内に、さっさと着替えてしまおう。
「どこか行くのか?」
「んー、着替えてくる」
「え……着替え、」
ぱたん。
『持ってたなら、何で着替えなかったんだよ?』言葉の途中で閉められた扉に、しばし呆然とする。はた、と我に返ると、松田は萩原の後を追って扉に手をかけた。





「よ…っと」
きゅっ、とネクタイを締め直す。どうせ一時間も保たないのは分かっていたが、なんとなく一旦締めるのが癖になっていた。
「…おい、萩原」
「…ん?松田、どうかしたのか?ああ、小便?大なら俺、先に戻るけど」
男子トイレの鏡を見ながら、萩原が声をかける。周りに他の同僚がいないせいで、口調がいつにもましてざっくばらんになっていた。
「…何で着替えなかったんだ?」
そんな萩原とは対照的に、どこか押し殺したような声で言う松田に萩原もようやく異変を察した。ジャケットを片手で肩に掛け、松田を真正面から見据える。
「どうした?やけに不機嫌だな」
「何でわざわざ俺に見せびらかしたんだ?どういう趣旨の嫌がらせだ」
「…だから、単に妬いてほしかっただけだってば」
(他意はないんだけどなぁ。…てか、こいつ絶対気付いてないよな)
“自分が今妬いている”ということに。
「お前、この前は違う色の口紅つけてたよな?なんでそんなにふらふらしてるんだよ。相手の女性だって可哀想じゃ…」
「…へぇ、よく見てるじゃん」
鏡台の下にジャケットを置くと、一息に松田との距離を詰める。
「…っ!」
ぐっ、と左肩を壁へ押しつけると、空いた右手でネクタイを掴みあげ、松田の顔をぐいと近づけた。
「俺って愛されてるなあ」
「…何が」
「そんなにしっかり妬かれて、嬉しくないわけないだろ?」
にっ、と口角をつり上げると、そのままネクタイを引き寄せ、乱暴に口付けた。
「…っ、ふっ…はっ…!」
「…ん……っふ…」
つ…と銀の糸を引きながら、唇を離す。掴んでいたネクタイを離すと、松田は小さく咳き込んだ。
「なぁ、松田」
「…何だよ」
赤くなった頬を隠すように顔を背けた松田の顎を掴むと、強制的に自分の方へ向かせる。
「俺は根無し草なんだよ」
「根無し草…?」
そこで肩と顎を解放すると、萩原はくしゃりと前髪をかきあげた。
「ふらふらしてて、定まることがない。そのくせお前には構ってほしくて、このザマだ」
備え付けのゴミ箱のペダルを押し、蓋を開ける。中には先ほどのシャツがくしゃくしゃになって捨てられていた。
「萩原…」
「まぁ、俺もそろそろ疲れてきたっていうの?そーいうのにさ」
鏡台の下に置きっぱなしだったジャケットをつまみ上げると、入り口近くの壁に立ち尽くしていた松田の横をすり抜けざまに言う。
「俺の根になれ」
「…根?」
入り口の扉に寄りかかり、煙草を取り出しながら萩原は静かに言った。
「俺はもうふらふらしたくない。お前も俺にふらふらしてほしくない。意見の一致だ。文句はないだろ?」
そこでぽん、と煙草ケースを投げる。松田が反射的にそれを受け取ると、萩原が不敵な笑みを浮かべて言った。
「了解と見なすぞ。…お前が俺の根になって、俺を縛り付けとけ」
「おいっ、萩原…!」
「あと二本入ってるんだ。やるよ」
ひらひらと手を振りながら去っていく萩原の背に向かって、松田が小さく呟いた。
「…枕元に煙草、置いてないだろうな?」
それを聞き、萩原が足を止めて振り返って言った。
「…置いてる」
「おいっ…」
早足で追いついた松田の耳元に口を寄せると、そっと囁くように言う。
「…今度、現行犯で捕まえてよ」
うちのベッドでさ。
「……っ!」
硬直した松田の背中を軽く叩いてから、自席へと戻る。硬直から解けた松田が何かをわめく前に、萩原はしばし物思いに耽った。
(…根になれ、だって?)
よくもまあそんなことが言えたものだ。
呆れつつも、随分素直になった自分を褒めてやりたかった。当てつけるかのようにふらふらしていた、遠回しな愛情表現しかできない自分とはお別れだ。
「…っおい、萩原!」
廊下から駆け込んできた松田を、微笑を浮かべたまま迎える。今の自分なら、何を言われても笑って受け流せるだろう。
(根無し草に根が生えたんだ。それが何を意味するか、わかるだろ?)
…俺はもう、お前以外じゃ咲けないからな。




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2005.2.5


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