その人はとても穏やかな笑みを浮かべる。
それは例え真冬の最中であっても、真夏の最中であっても心を春にする。
それから、柔らかく名前を呼んでくれる。
だから、私は 彼の声で名前を呼んでもらえるのを待ってる。

さん。」と呼ぶその声にゆっくり振り向いて返事をする瞬間がどうしようもないほどに嬉しい。





  なた






「工藤さん。」
「あぁ、さんですか。」
「はい。今日もいいお天気ですね。」
「そうですね、お散歩日和はまさにこんな天気なんでしょうね。」

コートのボタンを閉めるのさえももどかしくて、彼の姿を見かけた瞬間に家を飛び出した。
少し髪の毛が撥ねてる自分に気づく。
寝起きですか?と彼がそっと笑って違います、と言うとまた静かに笑う。
こんな空間がとても大好きで、大好きで胸がいっぱいになる。


「工藤さん。」
「何でしょう?」
「一緒にお散歩しませんか?」
「いいですね。」

変な感じがします、と彼は笑う。
息子しかいない私には、娘という感覚が分からないのですが貴女といると何となく分かると。
それは光栄です、と笑うと彼も頷く。
焦がれて、募らせるほどに心が痛むような激しい感情はないけれど、憧れを抱かせるには十分魅力を彼は持っている。
正直な心は、とてつもなく跳ね上がっているから。

「まだ、つぼみは固いですね。」
「そうですね、まだまだ冷え込みの厳しい時期ですから。」
「でもこんなに寒くても咲く花はあるんですね。」

植え込みから見える濃いピンク色の花びらがあたりを鮮やかにしている。
花は好きですか?と聞かれて、一瞬躊躇うけれど小さく頷く。
小さな女の子のように、大好きと大声で言うのは少し照れくさくて、でも彼の笑顔を見ていると素直になれる。
それはとても不思議な力なんだと思う。
彼のその穏やかな笑みと優しい声の前には、どんな嘘すら全てが真実となりえてしまいそうなほど。
そういえば、そんな話をした時に彼は面白そうに笑っていた。

「もし、そうなればきっと世の中大変なことになりますね。」
「・・・確かに、そうですね。」
そう答えて二人で笑ったことがある。大学生の特権と小説家の特権が重なりあった午後の出来事。
さんは、よく公園に居ますねと優作が口にする言葉に、
だってあなたも足を運ぶからと言えないのは、自分がそこまで素直になれないから。

花が好きですか、と彼がもう一度繰り返す言葉にはっと顔を上げる。
「有希子と同じですね、彼女も花を見ると頬が緩むんです。」
ちょうど、今のさんと同じように、と彼は足を止めて視線を合わせるように小さく笑う。
「有希子さんは、お元気ですか?」
「ええ。家の中は賑やかですよ。」
「ふふ、きっとそうですね。」
「新一も、貴女に会いたがっていましたよ?」
「新一君が?それは、何だかとても光栄ですね。」

東の名探偵さんですから、と言うと彼は困ったような表情を少し浮かべて苦笑いをする。
まだまだですよ、と笑う姿は父親の表情なんだと思う。
それでも嬉しそうなのは声から分かる。

「うちに寄りますか?」
「え?」

でも寝癖が、と笑うと彼が被っていた帽子をそっとのせてくれる。
こうすればきっと大丈夫でしょう、と笑う彼にほんわかと心が温かくなって、頬が少し熱を持つ。
「お借ります」と言うと彼はどうぞ?と笑った。


「実は少し煮詰まっていたんですよ。」
「え?」
「続きが浮かばなくて、それで外に出てみたんです。」
「へー、工藤さんもそんな時があるんですね。」
「ありますよ。私も完璧な人間じゃないですから。」
「・・・私も、レポート書けなくて投げ出してたんです。」
「偶然ですね。」
「本当。窓から工藤さんが見えたので、追いかけてみました。」

帽子を少し深く被ると、その上に彼の手のひらがおかれる。
外の空気を吸うと気分転換になって、誰かに会うとさらにそれが喜びに変わる。
それから、会えた人が憧れの人だと喜びをかみ締める幸せに変わる。

「提出はいつです?」
「・・・実は、明日なんです。」
「なるほど、大学生は大変ですね。」
「大変です。でも、推理小説家さんも大変ですね。」
「ええ、大変です。締め切りの前に編集の方に追われますから。」
「ふふ、意外です。想像つきません。」

そう見せているんですよ、と彼はやっぱり穏やかに微笑む。
どんなお話書いているんですか?と訪ねると企業秘密です、とウィンクを送られる。

ウィンクが似合う人なんてそういないのに、彼は似合う。

「じゃぁ、その中の一人に私を出してください。」
さんを?」
「はい。レポートで苦しんでいる大学生で。」

彼は小さく笑って、名前を決めないといけませんね、と辺りを見回す。
目に飛び込んできた鮮やかなつばきを見て、さんが今日私の目の前にぽっと飛び込んできたので
今、目に飛び込んできたあの花の名前にしましょう、と笑った。
椿の花言葉、控えめな愛。それから、一説では「わが運命は君の掌中にあり」
歌劇の椿姫のような女性とは程遠いですが、と笑うと彼はゆっくりと振り向いた。


「わが運命は君の手の中にあり、と誰かに思わせる魅力は十分ありますよさんには。」


それはとても はっきりと聞こえた言葉
返す言葉に戸惑う私に 彼は何事もないようにまたいい天気ですねと笑った。
穏やかな笑みと穏やかな声は、武器になり得ると学んだ。
そう北風と太陽みたいに、暖かいひなたも考えようによっては、きっと武器になる。
とても とても 優しい 温かい 武器