気付いたら、空を見上げるようになっていた。
習慣とは呼びたくない、なんだか待ち焦がれているみたいだから。
…そう、それを表す言葉があるとすれば。






  意識






「風邪を引くと、申し上げたはずですが?」
「人の指図は受けない主義なのよ。私は私の思うようにするだけ。」
そうして空を見上げるようになってから、月の明るい晩には必ず訪問者がやってきた。
真っ白なマント、真っ赤なネクタイ。シルクハットから飛び出すのは、鳩か、花か、魔法か。
ともかく彼の格好は滑稽で、それでも格好良く見えてしまうのは月夜の魔法のせいにしておこう。
「…そうですね、以前もそうお聞きしていました。これはご無礼を」
「わかればいいの。」
そんなつれない態度をとってしまうのも、やっぱり無意識のなせる業。
頭で考えてから行動していたら何も喋れなくなってしまうから、「無意識」にはお世話になりっぱなし。
空に昇った大きな月は、灯りの少ない街をやわらかく照らしている。
都会化していないこともあるが、時刻は丑三つ時。薄着でいるのがためらわれるこの時刻に、
は薄いブラウス一枚だけだ。彼が、風邪を引くと心配するのも無理はない。
「…ねぇ、何か、飲む?」
今日、新しいワインを買ってきたんだけど。
そう続けると、彼はゆるゆると首を振って否定した。
「飲酒運転などしたら、捕まってしまいますから」
そのセリフに、が片眉を下げて苦笑する。…は、彼のこういうところがすきだ。
「ハンググライダーで飲酒運転?…それに、既に追われている身でしょ。ねぇ、…怪盗キッドさん?」
おかしそうに言ったに、彼…キッドが、口元に笑みを浮かべて言った。
「まぁ、これ以上の罪を重ねない…ということで、ご容赦願えませんか」
「…仕方ないわね」
そう、それにいるんでしょう?…あなたの帰りを、待つ人が。
(…まぁ、「もうすぐ7つになる子供がいる」と言われた時には驚いたけれど)
思い出して、思わず笑みがこぼれる。
世間を騒がせている大怪盗も、一人の人間だということを知っている人はそうそういないのではないだろうか。
(それだけ信用されていると、思ってもいいのかしら)
ただゆっくりと過ごす時間が心地よく、話している空間が気持ち良い。
(何なのかしら…自分でも、よくわからないけれど)
…彼に、恋愛感情は抱いていない。

「それでも、すき、だと思うのは、何でかしら?」
「…さぁ、何故でしょうか。それは私の疑問でもありますね」

ばさばさ、ばさ。

真っ白なマントが、夜風にはためく。
振り向いて微笑った彼は、自分よりもいくらか上の男性で、
(…ああ、これを“ニヒル”って言うのかしら。)
とは言え、彼にそれを告げることはしないけれど。だってきっと、貴方は笑ってかわすから。
「まぁ、答えを無理に出す必要はないと思いますよ。」
「ええ、出すつもりもないわ。」
答えを出さないと赤点になる数学とは、わけが違う。
計算機で叩きだせるものでもないのだから。
「そんなとこに座っていて、不安定じゃない?…中に、入っていいというのに。」
ベランダの桟に座っている彼は、いつだって不安定にゆらゆらと揺れている。
いつ落ちてもおかしくないその体勢に加え、マントが風に泳いで不安定さに輪を掛けている。
(…なんて。)
言ってみた、だけよ。
「いいえ、大丈夫ですよ。ご心配には及びません」
「……ふふ」
可笑しそうに笑ったに、キッドも微笑を浮かべる。

今のやり取りで、何度目だろう?

そう、これは言葉遊び。
子供が何か褒めて欲しい時に、何度も同じことを繰り返し言うように。
返ってくる言葉は「すごいね」の同じ一言なのに、その一言を聞きたいがために、何度も、何度も繰り返すように。
お互いにそれを承知の上で、この言葉遊びを楽しんでいるのだ。
「……思うに、」
「…え?」
いつもなら、ここでもう一つの言葉遊びが始まるところなのに。
今日の彼はもう、遊ぶつもりはないらしい。
「…思うに、なに?」
彼が自分の気持ちを吐露することは、珍しい。
これは貴重な体験ね、などと暢気に構えつつ、は先を促した。

「私と貴女は、気の置けない他人、といったところでしょうか。」

…音のない夜が、しばしあたりを包み込んだ。
は、何度も何度も、その意味を反芻して考えた。
「…ねぇ、矛盾してない?」
そうしてようやく導き出した言葉に、キッドがくつくつと可笑しそうに笑う。
そうしてシルクハットに手をかけると、その先を軽く上げて繰り返す。
「私と貴女は、気の置けない他人。…先ほどの問いの、答えの一つにはなるのではないかと。」
「だって、気の置けない…っていうのは、自分が気を許せる人物でしょ。でも、それが他人…」
そこまで言って、ははたと言葉を止めた。

彼は私の、名前も知らない。
私も彼の、本当の名前を知らない。
それどころか、彼の顔すらまともに見たことはない。
会うのは夜だけ。
昼間、お互いが何をしているかなんて知る術もない。

「…確かに、他人ね。」
知人や友人と呼べるレベルではないのは、間違いない。
しみじみそう言ってから、もう一点に気付いては目を見開いた。

「…あなたにとって、私は気の置けない存在?」

そう問いかけると、

…彼は、ただ微笑った。

「気の置けない他人、ね。…言いえて妙。でも、問いの答えにはなっていないんじゃない?」
「そうですか?」
不思議そうに問いかけると、ゆっくりと体を反転させる。狭い桟の上で、器用なことだ。
窓ガラスにゆっくり寄りかかりながら空を見上げると、は困ったように続けた。

「だって、私はあなたのことがすき。あなたもそうであると、言ってくれたでしょう?」
「…そうですね。私も貴女のことがすきです。気付くとここに来てしまう…」
ちょっと困ったように言うと、これもまた珍しく、ベランダ内へと降りてきた。
いつもは桟から決して降りようとしないのに、今日は貴重な体験だらけだ。

「…じゃあ、また次の機会に、考えましょ?」

いつも、そう。
何がしかの問いを残したまま、夜の逢瀬は終わる。
次に会うための約束、などといったものではない。
その証拠に、その問いが次の逢瀬に引き継がれることは、ほとんどない。
…それでも問いを残してしまうのは、

「そうですね。…ではレディ、またの機会に。」

彼の、この一言が聞きたいからだ、と思う。

恭しくお辞儀をした彼に片手を上げて応えてから、が言う。
「おやすみ、怪盗さん。今日はいつもより饒舌で、楽しかったわ」
それに対し、キッドが苦笑して返した。
「あまり喋りすぎる男は、嫌われると聞きますよ。」
「そう?私はすきよ。…たまに、饒舌になるくらいがね。」
そうしてひらひらと手を振れば、それが終わりの合図。
「御機嫌よう。」
「あ、ちょっと待って。」
今にも飛び立ちそうな彼の元へ駆け寄ると、がそっと囁いた。



「…え?」
「私の名前は、よ。…怪盗キッドの友人候補。そう覚えて」
そうして、ウィンク一つ。
ふ、と微かに笑みを浮かべると、キッドは桟の上に立ちなおして言った。

「…では、良い夢を。ご機嫌よう、。」

次の瞬間には夜空を舞う鳥へとなった彼を見送り、はぽつりと呟いた。
「気付くとここに来てしまう…か…」
気付くと夜空を見上げている、私のように。

ねぇ、貴方にもそうであって欲しいと思ったの。
その思いが通じていたから、他人から一歩を踏み出すことにしたのよ。


貴方も 無意識 に ここへ 足を運んで きてくれていたら と。