その人は、とても不思議な人だった。
不器用な優しさを持つ、あたたかな人だった。
雨の中、子猫を見つけた。
濡れていて、震えていて、か細い声で泣いていて。
けれど私にも、どうすることもできなかった。
傘を、持っていなかったから。
だけど放っておけなくて、他にどうしようもなくて、一緒に濡れることにした。
雨は、唐突にやんだ。私と猫との頭上だけ。
「…風邪を、引きますよ?」
「…ありが、とう」
傘を手向けてくれたその男は、雨にも関わらずサングラスをしていた。
ちょっと大きすぎる気もしたけれど。
ざあざあざあ。
いつまでたっても、雨が襲ってこない。
「…なに、してるの」
ちらりと見上げて言えば、微かに上がる口元。
「お付き合いしますよ」
雨がやむまで。
私は呆れて、「勝手にすれば」と返して猫に視線を戻した。
「…ねえ。」
「はい」
「あなた、名前は?」
ざあざあざあ。
「…時計、です。」
虹
をまってる
「…全く、私が動かなかったら、あなた、本当に降り止むまであそこにいるつもりだったの?」
「ええ…そうかもしれません」
「……ふーん。」
近くにあった、古ぼけた空き家。そこへ避難し、は手近にあったタオルを手に取った。
…顔を拭く気にはなれないが、水分をふき取るくらいには使えそうだ。
子猫の体もがしがしと拭いてやってから、そっと抱き上げる。
「……時計、さん?」
「はい」
「タオル、どうぞ」
「ありがとうございます。あなたが使い終わってからで結構ですよ」
「あ、私はもう大丈夫だから…」
「では、お借りしますね」
じっと大人しくその様を見ていたが、再び小さく名を呼んだ。
「…………時計さん」
「はい、なんでしょう」
やわらかな口調で。優しい声色で。
そう返事をしてから、もう誰も使うことがないであろうタオルを、丁寧に畳んで置く。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「…ですから、時計と」
「なんで」
「…………え?」
優しいこの人を詰問するようなことは、したくなかった。
したくなかったけれど、どうしても気になってしまったんだ。
…その名前の、持つ意味が。
「なんで、“時計”なの?」
雨はやむことなく、静かに降り続けていた。
それはまるで外界と遮断されているみたいで、この世界に他に人がいないような、そんな錯覚に陥りそうだった。
…彼も、そう思ったのだろうか。
だから、そっと語りかけてくれたのだろうか。
長針がひとつひとつ進むように、ゆっくり、静かに。
「…時を、戻したいと、思っているのかもしれません。」
小さく。
ぽつりと呟いた言葉は、きっと、彼の本当の言葉。
は、大人しく抱かれていた子猫をそっと古びたソファへとおろし、時計の元へ歩み寄った。
「……あの、」
「です。」
「…、さん?」
戸惑ったような彼の言葉を無視して、私はそっとサングラスに手を伸ばした。
「……優しい瞳、ですね」
思ったとおりだ。
彼の瞳が驚きで大きく開かれるのを最後まで見ず、はサングラスを戻した。
「違うでしょ。」
つい、と背を向けて、窓の外へ視線をやる。
相変わらず雨は降っていたけれど、空は微かに明るくなっていた。
…きっともうすぐ、雨が上がる。
「違うでしょう。あなたは、時計さんは、時を進めようとしている。」
くるりと振り返れば、呆けたようにこちらを見る彼がおかしくて。
…小さく、吹いてしまった。
「さん?何か…」
「いいえ、なんでもないです。…ねえ、時計さん。」
一旦言葉を切って、小さく息を吸う。
「私には、そう見えるよ。…雨上がりの虹を、待っているのでしょう?」
の言葉を聴いて、時計が初めて自分からサングラスに手をかけた。
…の後ろに見える窓の向こうに、光が見えた。
雲の合間から射す、一筋の光が。
「虹のふもとの宝物。…早く、見つかるといいですね」
(きっとこの人は、)
何か大切な、守りたいものをもっている。
…守りたい人が、いる。
だから、心に宿った小さな灯は、そっとしまいこもう。
私だけのものにして。
「…ありがとう。さん」
「私は何もしてませんよ」
そう言って、彼は、泣きたくなるくらい綺麗な微笑を浮かべた。
「おいで、トキ。ごはんだよ」
「…ミャ」
とてとてと、小さな足を懸命に動かす子猫を見て笑みを浮かべる。
黒い毛並みが綺麗な、彼によく似た子猫を。
…願わくば。
どうか、あの優しい瞳に、大切な人が映っていますように。