「……ヴァイオリン専攻の、王崎先輩?」
「そう。知らない?」
友人の言葉に、は首を傾げた。
「弦の方までは…」
「超有名だよ〜?それにスッゴいかっこいいんだから!!」
「はぁ…」
(超カッコいいヴァイリン奏者、ねぇ)
いくらなんでも、顔だけでそんなに有名だということはないだろう。…それならば、音色を聴いてみたい。自分の専攻はトロンボーンだが、ある程度の“耳”は持っているつもりだ。
「ねぇ、どこに行けばその人…」
「うわっ、昼休み終わる!私次授業あるんだった、またね!」
横に置いてあったクラリネットケースをひっつかみ、慌てて戻っていくのを唖然としながら見送る。…慌ただしいことこの上ない。
「さて……」
次の時間に授業はない。練習室空いてないだろうなぁ、どこか吹ける所あったっけ、なんて考えながら腰を上げたときだった。

………歌が、聴こえた。

「っ……!」
ばっ、と振り返る。出所は、と簡単に目星をつけ、とりあえずトロンボーンケースだけ掴んで駆け出した。これじゃあ、慌ただしいだなんて、人のことをどうこう言えない。
(……違う)
歌、じゃない。
音を探して走りながら、胸中で呟く。この音色は、ヴァイオリンだ。それなら、どうして自分は「歌」だなんて思ったのだろう?

ザッ。

…敷地内にある、小さな池の畔。陽の光がキラキラと反射していて、その眩しさに瞬間目を細める。
そこに、“彼”はいた。
「……っ、はぁっ…」
トロンボーンを抱えて全力疾走なんて、そうそうしない。乱れた息を整えたい、けれど自分の息で音を僅かでも聴き逃したくない。…結果的に、その場でへたりこむ羽目になってしまった。
(大丈夫…気付かれてはいない)
這いずるようにして樹の陰に隠れ、そっと様子を窺う。…そこにいたのは、綺麗な栗色の髪をした青年だった。年の頃は、自分より1つ2つ上、といったところだろうか。
(なに…この音色……)
聴いたことのない、澄んだ音。
これは本当に、私が知っているヴァイオリンの音?
(……ああ、そうか。)
今まで知らなかった、音。
だから私は、「歌」だと思ったんだ。これはヴァイオリンの音じゃない、ヴァイオリンの歌なんだ。
納得して、そのまま目を閉じて歌の中に身を委ねて。
…どれほどそうしていただろうか、不意に音色がやんだ。
(……?)
現実にまだ帰りたくなくて、不思議に思って目を開けると、目の前に青年の顔があった。
「わああああああ!!?」
悲鳴を上げながら飛びすさると、彼はくすくすと笑って言った。
「…もしかして、隠れているつもりだった?トロンボーンケース、忘れてるよ」
「あ」
自分だけ隠れても、ケースが飛び出していてはどうにもならない。恥ずかしさに頬が火照るのを感じながら、「すみません…」と消え入りそうな声で呟いた。
「ふふっ、別に謝ってほしいわけじゃないよ。…聴いててくれて、ありがとう」
ふわり。
…その優しげな微笑に、既視感を覚えた。
「……?どうか、した?」
「あ、すみません!何でもないんです。あの…!」
既視感は気のせいだろう。そんなことより、…もしかして。
もしかしたら、この人が。
「お、ここにいたか。王崎〜!先生が呼んでるぞ!」
言葉の続きは、割って入った声に遮られた。座ったまま見つめあっている二人を不思議そうに見ているのは、恐らく彼の学友だろう。そう、ここは別にどこかの森の湖というわけではない。大学の敷地内だ。
「…ありがとう、小川」
そう言って立ち上がった彼は、また最後にふわりと笑って。
「……またね」
そう言って、行ってしまった。片手には、歌うヴァイオリンを携えて。
「やっぱり……!」
あれが、“王崎先輩”。

変わらずへたりこんだまま、はぎゅっと自身の胸元を押さえた。…この鼓動の高鳴りは、一体いつになったら落ち着いてくれるのだろう?




       Einsatz -アインザッツ-



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