穏やかな放課後





「防犯対策?」
放課後、夕刻近くの教室。
帰宅部の者は既におらず、部活に所属している者はそれぞれの部室へ向かい、人気の無くなる時間帯である。明日締め切りの提出課題を解きながら、快斗の唐突な提案にはきょとんとした。
「そう。やっぱ、縄抜けとか手錠外しくらいできたほうがいいと思うんだよな」
の間違えた箇所に印を付けながら、快斗があっさりそう言った。
「…普通に生活してたらいらないと思うなあ、そういう技術」
増えた赤丸(快斗が間違いをチェックした箇所だ)にうんざりとしながら、はそう言って消しゴムを取り出した。
「ああ。けどな、この前みたいに無理矢理やると腕痛めちまうし、かといってそのままでいるのはもっと危険だろ?」
「…この前みたいなことは金輪際お断りなんだけど」
訂正した答えを書き、次のページをめくりながらがげっそりとした声を上げた。
“この前みたいなこと”とは、スネイクの一味に攫われたときのことだ。変な薬はかがされるわ、縛られるわ、痛んだ腕をかばいながら逃げまどうわ…でいい思い出など一つも……
(……あ。あった、一つだけ)
嫌な出来事に埋もれ、ともすれば忘れてしまいそうになる淡い記憶。
(………キス…したんだよなぁ)
肝心のその時のことは、ぼんやりとした記憶しかない。何故かと問われたら、自身も「なぜでしょう?」と首をひねってしまうのだが。夢かもしれないと思う反面、日記(見られて以来鍵付きにした。快斗相手じゃ意味無いかもしれないけど)に書かれた文章は、それが現実であることを物語っていた。
(そういえば初キスはレモンの味とか言うけど…いやいやそんな昭和の少女漫画みたいなことは…)
悶々と考え込んでいるを、快斗はおもしろそうに眺めていた。
「…オメーほど考えてることが丸見えな奴も珍しいよな」
「は?」
ふい、と伸ばされた快斗の手が、の手首を掴む。…無意識の内に唇に触れていた指が、離れた。
「…っ!」
かぁっ、と頬が染まる。恥ずかしい。
「…唇が荒れてるの!今日リップ忘れたからっ…!」
ばっ、と腕をふりほどき、そっぽを向く。白々しいとは思ったが、忘れたのは事実だ。嘘ではない。
「……
「だからー…」
再び同じ言い訳をしようと、振り向いた瞬間。

ぺろっ。

「…………へ?」
「荒れてんだろ?」
机から身を乗り出し、にっ、と笑いながら言った快斗に、はしばし現状把握ができなかった。そっと唇に触れれば、先ほどとは違って湿っている。
「な……」
な。
(なめたっ…!?)
ガタンッ、と音を立てて椅子から立ち上がる。驚きやら怒りやら恥ずかしさやらで、ただパクパクと動く口からは言葉が出なかった。…とりあえず、机の上にあった消しゴムを快斗に向かって力いっぱい投げてみる。
「おわっ」
悲鳴を上げつつ、ぱしっと見事にキャッチする。…それがまた腹立たしかった。
「なんだよー、いいじゃんか減るもんじゃなしー」
ぶーぶー言う快斗に向かって、は椅子に座りなおしながらぴしゃりと言った。
「減るのっ!」
「減るのか!?」
明らかにビビった声を出した快斗に、は吹き出した。…結局、怒り続けることなんてできない。
「…物質的なものじゃなくて。プライドとか、そーいったものがね」
「なんだそーか…って、ん…?」
何やら考え込んでしまった快斗を机の向かいから眺め、は小さく微笑を浮かべた。
(…軽いところもあるけど、やるときはやるもんね。)
「ねー快斗」
「いやだから…って、ん?何だ?」
出口のない迷路にいた快斗を呼び戻し、はにっと笑って言った。
「やっぱりいいよ、防犯対策」
「え?なんで?」
不思議そうに聞いた快斗をびしっと指し、が続ける。
「快斗がいるもん」
―――…へ?」
「だから、もうあんなことにはならないよ」
“守って、くれるよね?”
あまり口には出さなかったけど、本当はすごくすごく怖かった。知らない男に囲まれて、縛られて、追いかけられて。あのとき快斗が来てくれなかったら、なんて、考えたくもない。
―――オレを誰だと思ってるんだ?」
に応えるように、快斗も笑みを浮かべる。絶対的な力を持つ、自信に満ちた不敵な笑み。…それだけで、十分だった。
「それに、オメー自身もそんなに弱くないからな」
…我が身を捨てて守らなければならないほど、彼女は弱くない。
「もちろん」
快斗の足手まといにだけは、なりたくない。…それだけの力があると、認めてもらえていたことが嬉しかった。
「さーて、そんじゃー残りの課題もちゃちゃっと終わらせちゃいますか!」
「…それができたら苦労しないんだけどねー」
苦笑して、再びペンを手に取る。…さし当たっての問題は、この課題だ。我ながら暢気だとも思うが、事実なのだから仕方ない。
「はい、そこ違うー」
「またぁ?」


―――それは、快斗くんと愛しい愛しいお姫様との、穏やかな放課後。




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2005.2.9


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