ひとつだけ、ひとつだけ。 私は少しも哀しくなんかないんだよと。 あなたに会えたことは、あなたを好きになったことは。 私の、誇りなの。 「明美、なんだか最近楽しそうじゃない?」 「……え、そう…かな」 旧友の言葉に、明美が微笑を浮かべながら言う。 「そう見える?」 「見えるわよー。最近ずっと元気なかったから心配してたんだから」 「ごめんね、そんなつもりなかったんだけど」 「謝ることじゃないってば」 (……そう。) 元気がなかったことは、自覚している。妹のこと、組織のこと。…考えれば考えるだけ深みにはまり、それでいて先が見えない。まるで、出口のない迷路に放り込まれてしまったように。 けれど、…楽しそう、というのは、自覚していなかった。 「何?彼氏でもできた?」 「え……」 言われた瞬間、頭を過ぎったのは一人の人物。 …いつも目の下にクマができていて、不健康そうで、長くて綺麗な黒髪が羨ましい人の、こと。 「…彼氏なんか、いないわよ。ただ……」 「ただ?」 興味深そうに聞いてくる旧友の額を、コツンと小突いてやる。 「なんでもないわよ。」 「ちょっとー、それはないんじゃない!?」 ただ。 気になる人は、いるんだけどね。 (…わかってる…わかってる) 自分が、こんな想いを抱くことを許されるわけがないと。 …それと同時に。 (わかってる……) ……いっそ、わからなければ、どれだけ楽だっただろうと。 そんなどうしようもないことを考えて、明美は一人、そっと自嘲の笑みを浮かべた。 「大くん」 「………ん?」 「大くん…」 「…なんだ。どうしたんだ」 ぽつり。 波紋のない水面に雫が落ちたように、静かな室内に、その名が響く。 「…ううん。珈琲、おかわり入れようか」 「……ああ。頼む」 「うん」 言って、明美が、じっと諸星の目を見る。 諸星も、その目線を外すことなく、見返す。 その様子に、ふ、と息をつくと、明美は「すぐ戻るね」と言ってキッチンへと向かった。 …時々、ふとした瞬間に、こんなことがある。 (目は何よりも雄弁に語る……か。) ちっとも頭に入ってこない小説をテーブルの上に置き、そっとため息をつく。…彼女は、自分の瞳の中に何を見ているのだろう。 ボロを出すようなへまはしない。 瞳を見られたくらいで嘘を見抜かれるようなこともない。 …だと、いうのに。 (何故…こんなに、胸がざわつくんだろうな) 彼女の瞳に、ああして見つめられると、胸がざわつく。 心が、穏やかでいられなくなる。 (それは……) それ、は。 「お待たせ」 「…ああ」 中断された思考の先にある、その先の答えを。 俺はきっと、知っている。 「ここまで話したんだから言っちゃいなさいよ!」 「…そんなに聞きたいの?」 「うん」 …この旧友にも、あと何回、会えるのだろう? 不意にそんなことを考えたら、どうしようもなく哀しい気持ちになった。 「…明美?どうかした?」 「あ…ううん。なんでもない、ごめん。…じゃあ、教えてあげるけど、別に何も期待してるようなことはないからね」 ことん、とコーヒーカップを置いて。 「…きっと、私の願いは、叶わないから。」 諦めたくはない。 けれど、過度の望みは、人の物差しを狂わせてしまうから。 「……らしくないよ、明美。」 「あはは…うん、そう…かな……。でも、この想いを恥じるようなことはないつもりよ。それに、今がとても楽しいから…哀しくも、ないの。あの人のことを好きな自分は、…私、好きよ。」 もしもあなたに、私の口から、本当の想いを伝えることが出来たなら。 …私は、少しも哀しくなんかないんだよと。 あなたに会えたことは、あなたを好きになったことは。 私の誇りだと、間違ってはいなかったのだと。 そう、言いたいな。 遮断された思考の先にある答えを、見つけることが許されるのなら。 その答えを、口にすることが許されるのなら。 「俺は……」 …許される日が来ることはないと、知っているのに。 回転の早い頭が弾き出した答えを、受け入れることが、できない。 俺は、君に、伝えたいことがあるのに。 例えその願いが、青写真で 終わってしまったとしても。 ---------------------------------------------------------------- BACK |