木花咲耶姫 −桜の君−





日本には、多くの神話が伝えられている。
自分はむしろ、皆が知っているような有名な話よりも、あまりスポットが当たらないような話を好んで読んでいた。その中の一つに出てきたのが、
「木花咲耶姫……」





(たまには散歩にでも行ってみるか…)
3月も終わり。高校は短い春休みの真っ最中だ。ニュースでは、4月を待たずに咲き乱れている桜の話で持ちきりだ。この国は、つくづく平和だと思う。
「…いいか」
何か持っていこうかと思案してから、軽く首を振る。近所まで散歩に行くだけだ。財布も必要ないだろう。背をもたせ掛けていた椅子からゆっくりと身を起こすと、窓の外を見やる。…少し高台にあるこの家からは、多くの桜が見えた。
一瞬、このまま窓から桜を見るだけでもいいか…と思いかけてから、気を取り直して部屋の扉を開けた。最近はキッドからの予告もないし、出かける用事も無い。体が少々なまっている。
「坊ちゃん、どちらへ?」
「ちょっとそこまで、散歩に」
「ではお車を…」
「いいよ」
やんわりと片手でそれを制すと、ふっと笑って言った。
「散歩は、歩いてするものだろう?」
「…左様で。では、いってらっしゃいませ」
にこりと笑って送り出してくれた執事が扉を閉めるのを確認してから、思いっきり青空を仰いだ。
「あー…気持ちいいな」
春の穏やかな日差し。空気はどこか眠たげで、それは人にも伝染する。
「よし」
…行く場所は、決まった。





「…すごいな」
近くにある河原に植えてある、桜並木。
地元のテレビが取り上げる程度には有名だが、観光客を呼ぶほどではない。あまり人気はなく、今見えるのは六分咲きから八分咲きの桜と、水面を流れ行く花びらくらいだった。
どこで横になろうか、ある程度は桜が咲いている木の下がいい…と上を見上げながら歩いていて、“それ”に気付いた。
「木花咲耶姫……」
ぽつり、と呟いた言葉は、木の上の人物にも聞こえていたらしい。
「……え?」
きょとん、として言ったのは、桜の木の枝に腰掛けている少女だった。年の頃は、自分とそう変わらないだろう。ふいに声をかけてきた自分を怪しむ様子もなく、にこりと笑って言う。
「ここ、登ってきますか?360度桜の花で、なんだか別の世界にいるみたいな気持ちになれますよ」
「え……」
ここ、を?
ゆっくりと視線を下に下ろし、また見上げる。自分の頬が軽く引きつっているのが感じられた。…とっかかりはなくもないが、あまり運動神経に優れていると言えない自分が、果たして登りきれるのかどうか。
(でも…)
もう少し、彼女と話をしたい。彼女と同じものを、見たい。
「今、行きます」
不安を押し込めて、なんとか食らいついていった。
「だっ…大丈夫ですか…?」
「だ、だ、だい…じょう…ぶですよ…」
なんとか登り切ったものの、ぜえぜえと肩で荒い息をしている自分を、彼女が本気で心配しているのが窺えた。まったく、情けないことこの上ない。
「…きれい、でしょう?」
言葉の内に笑みを含みつつ告げられた彼女の言葉に、息を整えてからゆっくりと周りを見渡した。
「すごい……」
本当に、360度が桜だ。
何本もある桜の中でも、とびきりよく咲いている桜を選んで登ったのだろう。視界に入るのは、桜と…わずかに見える、青空のみ。
「ここ、私のお気に入りなんですよ。それで、えっと…さっき、なんておっしゃったんですか?このはが、とかなんとか…」
「あ…」
彼女を見た瞬間、口をついて出てしまった名前。最近読んだばかりの日本神話で、まだ記憶に新しい名前。
「このはな、さくやひめです。木花咲耶姫…日本神話に出てくる人物の名前です」
その端正な姿から、桜の精とも言われ…美しい日本の自然を表す存在とも言える、姫。花が咲き零れるような、そんな素敵な女性だったと言う。
「そ…そんな大層な姫に例えられたんですか!?私、そんなんじゃないですよ全然!」
説明を受け、困ったようにぶんぶん手を振る少女を見てふっと笑みをこぼす。桜の花に囲まれて、穏やかな笑みを浮かべている少女を…例えたのではなく、本当に木花咲耶姫だと思ったといったら。一体、どんな反応を返すだろう。
「あ、名乗るのが遅くなってすみません。僕の名前は、白馬と言います。白馬、探です」
それを聞いて、彼女の目が軽く見開かれた。
「…はくば?白い馬、で白馬ですか?」
「え?ええ、まぁ…」
何かまずかっただろうか、と心配しながら言うと、「わぁ」と小さく歓声を上げた。
「素敵なお名前ですね!白馬くん!ふふ、王子様みたい」
「…では僕は、さしずめ桜の姫を迎えに来た王子、というところでしょうか?」
ちょっとおどけたように言うと、ふふふとくすぐったそうに笑いながら言う。
「そうかもしれませんね。あ、私こそ遅くなってごめんなさい。私の名前は、といいます。、でいいですよ」
ようやく聞けた彼女の名前に、白馬が早速呼びかける。
姫?」
「はい、なんでしょうか白馬王子」
「…っははは」
「ふふふふ」
ああ、本当に。
(花が咲き零れるように…笑う……)
舞い散った花びらを何枚か纏っているためか、本当に桜の精のようだ。
…君は、明日もここにいますか?」
何気なく聞いたようでいて、本当は勇気を振り絞って聞いた問い。
「私は…」
ふいにの手が伸びて、白馬の髪に触れた。
「……毎日、ここにいますよ」
にこりと笑って答える。ゆっくりと戻した手には、花びら。…どうやら自分も、花びらを纏っているらしい。
「では、姫。また明日も、お目にかかれますように」
「お待ちしています、王子様」
「…って、ここでかっこよく立ち去れればいいんだけど」
困ったように下を見下ろしてから、へと視線を向ける。
「その…降りるの、手伝ってもらえないかな…?」
「王子様らしくないですねぇ」
の手を借りて、ゆっくりと下へと降りる。足がかりを探しながらなので、思うように進まない。
「わっ……」
「えっ、ちょっ…」
ふいになくなった足場に、がくんと姿勢が崩れる。足を掛け損なった、と気付いたときには、既に落下感に襲われていた。…そして、自分が手を離していないことにも。
(しまっ……!)

どっ、どさっ!!

「ったー……」
「は、白馬くん…危ないじゃないですか…!」
「あ、ああ、申し訳ない…」
自分が巻き込んで落下させてしまったのだから、には全く非が無い。身を起こそうとして、上にが乗っているままでは起きられないことに気付いた。
「なんだかなぁ…これじゃあ僕、姫を乗せて走る馬みたいだ」
「え?あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて飛び降りたを見て、小さく吹き出す。
「冗談ですよ、姫」
「…もうっ」
ぷぅ、と膨れた頬を軽くつついてやる。ふい、とそっぽを向いたに向かって、白馬は恭しくお辞儀した。
「では明日、同時刻にまた」
「……お待ち、してますから」

姫の頬が、ほんのりとピンク色に染まっていたように見えたのは…桜のいたずらだろうか。
それから白馬は、ほぼ毎日“散歩”に出かけるようになる。



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