「こら、。この人はな、お前のナイトになるかもしれないんだぞ」
さん!」
「ないと?…ないと、って、なに?」
「縁起でもないこと…言わないで下さい」
「おや、縁起でもないこととは心外だね?」
「それは、つまり……」
「赤井くん。他意がないといったら、嘘になるがね。…もしものときは。」
「…おとう、さん?」
優しい大きな手。あたたかで、温もりのある手。
いつだって、一番安心できた手。

を、頼んだよ。」





 雪 の 果 て







ぱちっ。
…唐突な目覚めは、夢の消失を伴うことが多い。
だが今朝は、違った。不意の目覚めにも関わらず、夢を鮮明に思い出すことができた。…そして、今まで見てきた夢が、ひとつに繋がったこともわかっていた。今まで見てきた夢は、父と赤井、そうして自分のやり取りだったのだ。
「そうだ…」
赤いだから、いやだ。そうして拒否をしたのは、赤井秀一その人だ。そして父は、そんな彼に私を託した。…まるで、自分の未来がわかっていたかのごとく。
「…一番安心、できた手は……」
温もりのある、大きな手だった。
…だった、のに。
(私は……)
覚えている。ジョディの家で酔いつぶれて眠ってしまったとき、自分の頬に触れる手があったことを。とても安心したけれど、その手は冷たかったのだ。
「……………。」
わかってる。自分が何を、躊躇っているのか。
わかっているからこそ、動けないのだということも。
ふと、壁を見やる。…この壁を一枚隔てた先に、その手の主は、いるのだ。





(“を、頼むよ。”)
その言葉は、糸のように赤井に絡みついた。守らなければならない、約束を果たさなければならない。そう、義務のように思っていたこともあった。…けれど今は、この手に抱いたあの温もりが、愛おしい。眠る頬に触れた手は、今もその熱を覚えている。

小さく、呟く。…彼女は今、一人雪原に佇んでいる。は父親を、二度喪った。喪ったと思って生きてきた時、そして改めて「死んだ」と知らされた時。唯一の肉親を二度も喪い、それでも虚勢を張って生きていた。ここしばらくの慌しさが落ち着いたことで考える時間が生まれ、それが彼女を雪原へと誘ってしまったのだ。…凍れる、大地へと。
「臆病に…なるな。」
……そう。
彼女は今、“喪失”を極端に恐れてしまっているのだ。何かを得ることが怖い。それは、いつか喪うことに繋がるから。…幸か不幸か、自分はその“何か”に選ばれてしまったらしい。このままでは、彼女はいつまでも雪原に一人だ。

(だが)

(でも)

わかっている。
この雪原を抜け出すための方法は、…たった一つしかないのだということを。





「…そりゃまた、急な話だね」
「ちょっとの間だけでいいんだけど…駄目?」
「別にいいけど……」
家が見つかるまでの間、泊めて欲しい。
そうお願いしたのは、同僚だ。…今はどうしても、あの部屋に戻れる気がしなかった。赤井が隣にいる、ただそれだけのことなのに、それを考えると気が動転して頭がおかしくなりそうになる。…こんな自分は、嫌だ。
「一泊二食つきで、宿代は炊事ね」
「上等!」
どうやら、なんとかなりそうだ。は、ほっと一息ついた。

「一日だけでもいいんだけど、」

「少しだけ、いい?」

「今日だけでも十分!」

(…私、何やってるんだろ。)
同僚の家を回って、大学時代の友達も当たって。
…ぐるぐるぐるぐる、ただ逃げているだけの日々。そこから何か解決策が生まれるわけもないのに。
会社から友人の家へと帰る道を、足取り重く歩く。顔も伏せ気味だったに、唐突に頭の上から声が降ってきた。
「よぉ、
「………、え?」
そこに立っていたのは、大学時代の友人。…に好意を持ってくれていたが、がそれに応えることはなかった。
「どう…したの?」
「ん?ああ…なんか、がふらふらしてるって聞いたからさ。もし、今夜泊まるトコないんなら、俺んち来ないかと思って」
「………」
視線をそらした相手の行動から、真意を読み取ることは難しくない。…情緒不安定気味な自分に、つけこもうというのだろう。
(最低…)
顔は悪くないが、やはり性格が受け入れられない。黙ってその前を通り過ぎようとすると、ぐっとの腕をつかんできた。
「痛っ……」
「なあ、いいだろ?俺んとこに来いよ」
「やめて、離して!」
「なんでだよ、別にいいだろ?今お前フリーだからこんなことしてんだろ?」
「ちが「離せ。」」
ぐい、っと。
有無を言わせない力で、自分の体が宙に舞ったのを感じる。当然、彼の腕はついてこられず、行き場を失い宙を彷徨う羽目になった。
「……え?」
…今、軽々と自分を抱き上げた、相手は。
「なんだよお前、関係ないだろ!?」
激昂した彼に呼応することなく、冷静に返された声は深く落ち着いていた。
「悪いが君には手を引いてもらおうか。…彼女は今、フリーではないのでね。」
「…な、」
「失礼する。」
「え、ちょ、ええっ!?」
絶句している友人を後に、くるりと背を向けるとさっさと歩き出す。その様子に、どうやら言葉を続けることも、後を往古ともできなくなってしまったらしい。そのまま罰が悪そうにその場を去っていった。
「…あ、あの、」
「下ろさない。」
「……え、」
「下ろさない、と言ったんだ。」
繰り返すと、そのまま無言で歩き続ける。…その様子に、が小さく問うた。
「赤井さん、どうして…?」
…そう。ヒーローよろしく自分を助け、そのままを抱き上げたまま歩いているのは、赤井秀一その人だった。
「携帯は、電池切れで放置していただろう。何日も家に帰らずに、どこをふらふらしていたんだ」
「ふ、ふらふらって…!私だって、自分で責任くらい持てます!」
が抗議の声を上げると、赤井は足を止め、すっとを降ろした。そしてそのまま、両肩を強く握って言う。
「っ、心配したんだ!」
……珍しく語気を荒げた彼に、は言葉を失った。
(心配……?)
 誰 を 、 誰 が ?

の存在を受け入れなかった親戚。
明かりのついていない自宅。

帰宅の連絡を待つ者など、…いなかった。

「……もうこれ以上、心配させないでくれ。ようやく触れることを許されたのに、……これ以上…」
「あか、」
ぎゅっ、と。
強く強く、抱きしめられる。呼吸すらままならないほどに、強く。
「赤井…さ、ごめ…なさ……」
心配させて、ごめんなさい。
…そんな謝罪、いつ以来だろう?
「…。」
「は…はいっ」
耳元で囁かれた名前に、鼓動が跳ねる。低く落ち着く、優しい声音が、そっとそのまま続ける。
「俺は、君の前からいなくなりはしない。」
「……!」
「だから、怖がるな。…臆病に、なるな。」

この雪原を抜け出すための方法は、…たった一つしかないのだ。

「俺は、君の前からいなくなりはしない。」
繰り返された言葉が、体の奥へと染み渡る。
「……赤井さん。私、私は…」
父を喪った悲しみは、…誰か大切な人を亡くす悲しみは、繰り返したくはない。それを繰り返すくらいなら、私はずっと、ひとりでいい。…あなたの優しさが、怖い。
ゆっくりと赤井が体を離し、そしてを見つめる。も、それに応える。
「俺の手をとれ。」
「…え?」
す、と。
伸ばされたのは、冷たくて、…それでも、安心できる手。
(君をそこから連れ出すには)
(私がここから抜け出すには)

誰かの手をとらなければ、ならない。

「………っ、」
それは、喪失と隣り合わせの幸福。
(でも、赤井さんは言った。…言ってくれた。)
いなくなりはしない。それはきっと、私に対する誓いとともに、自分に対する誓いでもある。…自分で立てた誓いを、人は簡単に破ることはしないから。それは、自分の存在意義の否定に繋がるから。
…それを知っていたから、父は。
「手を、……手を、とって、いいですか。」
ゆっくりと触れた指先。握り返された手。泣きそうな表情で見つめた彼は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう。」
俺の手をとってくれて、ありがとう。
ひとりではなく、ふたりになる勇気を出してくれて、ありがとう。
「…誓おう。」
君のその想いを裏切ることは、決してしない。
君を一人で戦わせることは、二度としない。



…冬が終わる。雪が終わる。雪の果てで待っていた、その人の手は。
冷たいはずなのに、とてもあたたかかった。



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