手をのばせば…





きっといつかは、その時が来ると。心のどこかではわかっていた。でも、わからないふりをしていたんだ。
「…お姉ちゃん。」
「ん?どうしたの、
手をのばせば届く、そこにある幸せは…いつまでも、変わらないものではないと。






最近、彼からの呼びかけに冷静に対応できている自信がない。その事に、彼が気付いていないとも思えないのだけれど。
「…なんですか、大佐」
ざわざわ、ざわざわと。
胸中を、黒いものが漂う。そしてそんな自分が、たまらなく嫌いだ。
「この資料だが…いつもの君らしくないな。穴だらけで使いものにならない。早急に作りなおしてくれ」
がたん。
音を立てて椅子から立ち上がる。そんなを見て、ロイは口をつぐんだ。
「…すみません、ちょっとトイレ」
「っ、おい!」
制止の声を上げようとしたロイを、ハボックが押し止めた。
「ハボック!」
「…俺に任せてくださいよ。こういうときはね」
普段仲介に入るリザは、資料整理でここにいない。の心の乱れに拍車をかけた原因でもあるだろう。
「しかし…」
「いーっスから。大佐よりは俺のが適任デショ」
ふぅーっ、と煙草の煙を吐き出してから火を灰皿でもみ消すと、ハボックはそう言って席を立った。
「…なぁ、ハボック」
「なんスか?」
ドアノブに手をかけた状態のままで振り返り、ハボックが返す。
「私は…に、嫌われているのかな」
珍しくしょぼくれたような声で言ったロイに、ハボックが吹き出した。
「わっ…笑い事ではないぞ!部下と意志疎通ができないのは大問題だ。私は真剣にだな…」
「はいはい、わかりましたよ」
適当に手を振って話を終わらせ、ハボックが新たに煙草を出しながら言う。
「…大佐は、もう少し待ってりゃいいんじゃないですか」
「待つ?何を…」
ばたん。
ロイの言葉は、ハボックが閉めたドアに遮られた。





(最低だな…)
とぼとぼと裏庭を歩きつつ、はため息をついた。…私情を仕事に持ち込んだ。それは、自分のプライドが許さなかった。それに…こんなに、苛々していることも。
「…ハヤテ号ー。」
ぼそりと呟いたの声を聞きつけ、ブラックハヤテ号がしっぽを振って駆け寄ってきた。まだ小さなその体をひょいと抱き上げ、木陰を見つけて座り込む。
「わかってるんだー…」
お姉ちゃんも、あの大佐のことを悪くは思っていないこと。
(わかってる、わかってるよ。…でも、私だってお姉ちゃん大好きだし。簡単には受け入れられないというか)
ごろんと横になったの頬を、ハヤテ号がぺろぺろとなめる。それがくすぐったくて、は笑みをこぼした。
「…ふふ、くすぐったいよ。」
「お、意外と元気そうじゃねーか」
「へ?」
ひょい、と覗いた顔に、がきょとんとした声を上げる。
「…ハボック少尉」
「もっとヘコんでるかと思ったぜ」
よっこいしょ、と言って横に座ると、ごそごそと煙草を取り出して火を点ける。
「…なんで、ヘコんでると思ったの」
身を起こし、ハヤテ号の手をちょいちょいいじりつつ、がぼそりと言う。その顔は、スネた子供そのものだった。
「なんで、ってなぁ。…お前さん、大佐に中尉をとられるのが悔しいんだろ」
直球で飛んできたハボックの言葉に、の頬がかっと朱に染まる。…それきり黙ってしまったに、ハボックは特に言葉もかけず黙り込んでいた。
「…って、る」
「ん?」
5分もそうしていただろうか。ぽつり、ぽつりと話し出したに、ハボックが煙草の火を消して応える。
「わかってる。お姉ちゃんを拘束する権利なんてないって。お姉ちゃんはモノじゃない。とられて嫌だなんて変だし、自分のわがままだってわかってる。…わかってるんだけど、」
一旦膝に顔をうずめると、苦笑じみた笑みを浮かべて続けた。
「こころが簡単に納得してくれなくて」
「…なんだ、全部わかってんのか」
心の整理もついていないだろうと、そう思っていたのに。
…本当に、子供と大人の狭間だと思う。感情的に動いてしまうかと思ったら、自分の現状もはっきり把握していたり。ちょっと背中を押してやろうかと思ってきたのだが、そこまでする必要もなさそうだ。
「別に…大佐と中尉がどうだろうが、中尉のお前さんに対する思いは変わらないだろ?」
軽く目を見開き、がハボックの顔をじっと見つめる。しばしそうしてから、そっと視線を外して呟いた。
「………そう、かな」
「俺はそう思うけどな」
実際、その通りだ。本人は気づいていないのかもしれないが、ホークアイのに対する愛情ははかりしれない。それに妬いたロイに何度つき合わされたかわからないほどだ。
(…って、俺、何で仲介に立ってんだ?)
まぁも大佐も大切だし、職場でやりにくくなるのも困るしな…と思いつつ頭をかく。そうしていると、不意にの視線が妙な方を向いていることに気づいた。
?なにか…」
その視線を追って、ハボックも固まる。…少し先の木の陰に、不自然に貼りついた人影が見えた。
「……なに、やってんスか」
びくりと肩を震わせたその人物は、やはり不自然な動きでスススと横移動する。そうしてそのまま走り去ろうとした影を、が飛び起きて追いかけた。
「大佐!!」
「わっ…私は大佐ではない!!」
再び幹の裏側に隠れた人物に向かって、は構わず続けた。
「私、手をのばせば届く距離にある幸せを、手放したくないです!ぶっちゃけまだ心の整理ができてません!ていうか大佐のこと嫌いだと思ってます!!」
「うっわー…」
堂々と心の内を吐露したに、ハボックが引きつった笑みを浮かべる。…どこまでもわかりやすく、一直線だと改めて思い知らされた。
「……でも」
すぅ、と息を吸い込むと、が一層声を張り上げていった。
「納得できるまで!!方法はこれから探すけれど、それまで待ってて下さいねっ!!」
ふぅ、と息をつき、はそのままくるりと背を向けてその場を立ち去った。そのあとを、ハヤテ号がてててと追いかけてゆく。
「……大佐ぁ」
「わかってる。何も言うなハボック」
そっとロイの横へ移動すると、ふ、と前髪をかきあげたロイがハボックの言葉をさえぎった。
「大人の余裕だ。嫌いだといわれたからと言って私は揺るがない」
「手、めちゃくちゃ震えてますけど」
「地震だ」
「局地的ですね」
そんなやり取りが後ろで行われていることは露知らず、はずんずん歩き続けていた。
「…ハヤテ号」
「わん!」
「今日から猛勉強。付き合ってね」
そういって、にこりと笑った瞳には。…既に、迷いの色は見られなかった。




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