…夢見が最高に悪かった。いや、この場合は「最低」と言うべきなのだろうか。 (…夢だ、夢。心配する必要はない) 軽く頭を振って、手早く着替える。階下に降りていくと、既につけられたテレビからニュースが流れていた。今日がキッドの予告日だと、煩わしいほど繰り返している。 「おはよう、快斗」 「……はよ」 ぼさぼさと無意識に頭をかきながら、椅子を引いてどさりと座る。一日の始まりだというのに、まるで一日の終わりのように疲労していた。 「今回、中森警部は欠席ですって」 「……へ?」 トーストを置きながらさらりと言った母親のセリフに、快斗は間の抜けた声を上げた。 「ニュースで聞いただけ。ほら、早く行かないと遅刻よ?」 「オ、オゥ…」 半端に与えられた情報に戸惑いを隠せなかったが、遅刻はしたくない。押し込むように朝食ををかきこむと、テーブルの上に置いてあった新聞を鞄に突っ込んで飛び出した。 「いってきます!」 「気をつけてねー」 (快斗……) 無茶は、しないでね。 「…新聞読む必要なさそーだな」 「快斗…」 机に突っ伏している青子を見つけ、鞄を脇にかけてから「中森警部、どうかしたのか?」とさりげなく聞いた。新聞で得る情報よりは正確なはずだ。 「大したことないんだけどさ、疲労で寝込んじゃって。あの最低男街道ダントツまっしぐらのおっぺけぺーの…」 「怪盗キッド?」 「…キッドがさ、最近すごい狭い感覚で犯行を繰り返してて。それで父さん、参っちゃったみたい」 それは悪いことをしたな、と快斗はちらりと心の中で謝罪した。あいつがロンドンに行っている間に、やれるだけやっとこうと思ったんだよな…とそこまで思考が及んでから、はたと思い出す。今朝の悪夢には、あいつ…白馬が、出てきていた。 (なんだったっけ…?) 良かろうと悪かろうと、夢の記憶は日が高くなるにつれて薄れてゆく。今となっては「銃で撃たれたような気がする」程度にしか覚えていない。 「…いと、快斗っ!聞いてるの?」 「え?あ、悪ぃ…聞いてなかった」 青子に肩をつつかれ、慌てて意識を戻した。可能な限り情報は集めておきたい。 「だからー、今日は違う警部さんが指揮官なの!もし捕まったらどうしよう、って父さんすごい心配しちゃってさ」 「捕まったほうがいいんじゃねーのか?」 「自分で捕まえたいんだってさ」 青子のセリフに、快斗は苦笑した。全く、随分と気に入られたものだ。 (そうか、中森警部じゃないのか…) 今日に限っていつもと違うことが、無性に不安を誘う。脇腹が…夢で撃たれた部分が、チクリと痛んだ。 「ったく…動物園から逃げ出してきたゴリラじゃねーか」 ばさばさとマントをはためかせながら、快斗…キッドは、“代わりの警部”を上から見下ろして呟いた。根っからの剛毛なのだろう、腕毛も去ることながらヒゲもすさまじかった。ついでに筋肉質で背は低い。見た目の醜悪さでは、なかなか右に出る者はいないだろう。…ただし知能指数は低いらしく、あっさりと宝石は奪われていたが。 「…さっさと帰るか」 月にかざした宝石を胸ポケットにしまうと、ハンググライダーを開く。…だが、勢いよく屋根を蹴ったのが間違いだった。 カランッ…コンッ。 (やべっ…) 老朽化していた屋根の一部が崩れ、下にいた警備員の頭を直撃したのだ。小さな破片だ、命に別状はない。…だが、上空を見上げる理由としては十分すぎた。 「キッ…キッドだ!!キッドがここにいるぞ!」 (ちっ…) 周りに高い建造物がない以上、今更地上に降り立つことはできないが、このままふらふら飛んでいては格好の標的になってしまう。 (…標的?) 『何』の? 無意識に出てきた単語に、自問する。飛んでいる自分、その無防備な姿に向けられた、黒光りする鉛の… 「!」 ぞわっ、と背筋を悪寒が駆け抜ける。とっさに翻した身を、何かがかすったのが確かに感じられた。 「マジ…?」 嫌な汗が、頬を伝う。その瞬間、唐突に今朝の悪夢を思い出した。…デジャブ、とでも呼ぶのだろうか、全く同じ感覚が全身を駆け巡る。 「け、警部…?発砲許可は…」 「ええいうるさい!この現場の指揮官はワシだ!ワシに従え!」 「し、しかし…」 どうやら先ほどの一発は、警部の先走りらしい。不幸中の幸いだ。これで部下全員が構えていたりしたら、蜂の巣になるのは確実だっただろう。 「…まずい、って」 圧倒的に不利なのはこちらだ。背を見せ逃げきるのが先か、狙撃されるのが先か。…あまり試してみたくない賭けである。 「次は…当てるぞ…」 (やべっ…!) 視界の端に、再び拳銃を構えた警部を捉える。ハンググライダーを解除して飛び降りれば弾は外れるが、地面に叩きつけられてしまう――― 腹を灼くであろう衝撃を、覚悟したときだった。 「発砲許可は出ていないだろう!」 突如飛び出した人影が、拳銃を構えた警部に体当たりした。当然ながら、ゴリラ警部はもんどりうって倒れた。拳銃はというと、既に体当たりを食らわした人物の手に納められている。 「なっ…」 夢の中で別れを告げたはずの、今ロンドンにいるはずの、あいつ。 (白馬…!?) 「なっ…なんだこのガキ!」 「白馬探。白馬警視総監の息子だ。先ほどロンドンから帰国した。中森警部が不在の今、この場の指揮官はこの僕だ」 「はっ…白馬…!?」 それを聞いた途端、ゴリラ警部はあっさりと萎縮し、すっかり意気消沈してしまった。勝手な行動をとった自分の、クビの心配でもしているのだろう。 「僕が捕まえるまでは捕まるな!…死ぬことだって許さない!」 行方を見守ろうと、ゆっくり旋回していたキッドの耳に、白馬が力いっぱい叫ぶのが聞こえた。こんな大声を聞いたのは、初めてだ。 (白馬…。) 一瞬脳裏をかすめた、悪夢。それはもはや形を失い、既に欠片も残ってはいなかった。 「くっくっく…」 “最も出会いたくない”とは言っても。 (さすがはオレが認めた“恋人”だな…) ふい、と方向を変え、徐々にその姿を小さくしていく。それを見送りながら、白馬は微かに笑みを浮かべた。 (これは貸しにしておくぞ、黒羽くん…いや、怪盗キッド) いつかきっちり払ってもらおう。僕がその片眼鏡をはぎ取る、その時までに。 “借りはつくりたくない主義でね” そんな一文と共に、宝石が胸元のポケットに入っていることに気付いたのは…それから数分後。 ---------------------------------------------------------------- 2005.2.4 BACK |