月明かりが、あたりをまばゆく照らす。虫の鳴き声を聞きながら、さらさらと筆を走らせる。
こんな夜は仕事がはかどると、次の書類を手に取ったときだった。
「………?」
虫の声が、消えた。
月が、雲に隠れ、闇が訪れた。
(……これ、は。)
まさかとは思うが、念のためにと短刀に手を伸ばしたときだった。
「別当殿。」
「………翡翠!!」
「おやおや、そんな物騒なものを構えて。別当殿はよほど私がお嫌いと見える」
「…嫌う、嫌わないの問題ではありません」
思わず片膝を立てていた幸鷹に、翡翠はくすりと笑みをこぼした。
…おそらく、来訪者が自分だと気付いた上での警戒だろう。
「いつ、どこから入ったのか…などと聞いても、無駄なのでしょうね」
「神出鬼没は私の特権だ。そんな野暮なことは聞かないでくれよ」
…ゆっくりと、月が再び姿を現す。
庭に立つ翡翠の姿が、眩い明かりに照らされる。
(…わからない、男だ。)
その名のように美しく長い翡翠色の髪、優雅な身のこなし。風雅を解し、愛するとも聞く。
「…お前は、どこかの貴族の末裔だと聞いた。なぜ海賊などに身をやつした?」
「身をやつす、とは…。随分なお言葉ではありませんか」
ふわり、と。
まるで宙を舞ったのかと思うほどの軽やかな動きで、翡翠は幸鷹との距離を詰めた。
「っ、」
「…ねえ、別当殿。今はそんなことはどうでもよくて。私は、君があまり寝ていないのではないかと、心配なのだよ」
す、と。
手を伸ばして触れた頬は冷たく、そして目の下にはうっすらと陰ができていた。
「仕事は、いくらでもありますから。あなたはそれを増やす立場でしょう。気遣いなど、」
「…無用だと?」
ぐい、っと顎を持ち上げれば、抵抗する力も無いままに成すがままにされている。
…こちらを睨めつける瞳は、健在だ。
「…ふふっ、ここでなにかを仕掛けたら、別当殿の視線で焼き殺されてしまいそうだな。」
す、と手を離せば、たたらを踏んでよろめく。
「ほら、無理をしている。」
「っ、あなたの手助けは無用です!」
「何もしないよ。だから、少し休みなさい。…幸鷹。」
「………あなたの制止に従う理由は、ありません。」
そう言って手を振り払おうとするも、翡翠はそれを許さなかった。
「制止には従わないと?では、止めることは諦めるかな」
「翡翠…」
ホッと息をつき、そうして幸鷹が手を伸ばそうとした書類を翡翠がひょいと取り上げた。
「何をっ…」
くすりと笑い、翡翠はいたずらっぽそうに言った。

「止めはしないさ。邪魔するだけで。」

「……わかり、まし、た……。」
ほぅ、とため息をつく。これではもはや、今日は仕事になりはしない。
「では、私は今夜は休みます。ですからあなたも帰ってください。今回は見逃します」
そう言って背を向けると、後ろからぐいと肩を握られ、そのまま背後に倒れこんだ。
「っ、翡翠!!」
「別当殿は仕事が恋人だからね。私が退散したら、そのまま仕事に戻ってしまいかねないだろう?」
だからね、私が、君が寝るまで横にいるよ。
とさっ、と体を横たえ、静かに髪を梳いてやる。
「……っ、翡翠!!」
「はいはい、説教はまた今度聞くからね。寝るまで私はここにいるよ」
「……〜〜っ」
悔しい。
悔しいが、確かにここ数日、まともに寝ていなかったのも確かで。
そうして横に人がいて、ぬくもりを感じられて、優しく髪を梳かれて。
…不覚にも、うとうとと眠気を覚えてしまった。
「…そう。いいんだよ、ゆっくりおやすみ、幸鷹……」
「ひ…す、い……」
うわごとのように呟かれた名は、闇に溶け消えて。
「…やれやれ。寝るようにとは言ったが、ここまで警戒心が無いのもね」
そっと頬に口付けを落とす。…今夜は、ここまでだ。
「おやすみ、幸鷹。君の夢路に私がいればいいのだがね」
ことん、と。
枕元に置くは、小さな貝殻。
「…また、来るよ。」
逢瀬の約束など交わさなくても、交わせなくても。
そうして君が、私のことを少しでも気に留めてくれるなら…と。
「ふふ、私もいじらしいものだね。」
そうしてもう一度頬に触れ、口付けを落とし。
月が影を映す間もなく、ひらりと軽やかな身のこなしでその場を立ち去った。
誰の目に止まることもなく、

…小さな貝殻だけを、証明として。




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