愛おしい、とか、大切だ、とか。
この現世にあふれている、そんな言葉ではあらわすことができない。
、という少女の、存在は。





「翡翠さん!」
「………………これは、神子殿。」
ててててて、と走り寄ってきた少女を見下ろし、翡翠は知らず微笑を浮かべた。
「…?翡翠さん、何か楽しいことでもあったんですか?」
不思議そうに聞かれ、くつくつと喉の奥で笑う。
「いや?」
「……はあ」
ぽんぽん、と頭を撫でられ、むくれたように頬を膨らませる。話をはぐらかされた、と思ったのだろう。…事実そうなのだから、言い訳の仕様もないのだが。
「時に神子殿、このような時間の独り歩きは感心しないね。頼忠はいないのか?」
西の空が、朱に染まっている。家路を急ぐ人々の足は早い。かくいう自分も、今日はもう屋敷へ戻ろうと思っていたところだ。
「あー…それは、えっとー……」
しどろもどろと口を濁すに、翡翠は苦笑した。…嘘が下手とか言う以前に、つくことができないのだ。この少女は。
「誤魔化してきたんだね?」
「……すみません」
しゅん、となったを、翡翠はひょいと抱き上げた。
「え?ちょ、翡翠さん!?え!?」
「せっかく神子殿自らがいらしてくれたのだからね。このまま帰す手はないだろう?なに、紫姫には文を送っておくから安心なさい。深苑は多少騒ぐかもしれないがね」
「いや、そうじゃなくて、え、」
「この先に私が仮住まいしている屋敷がある。そこでいいね?」
が言葉を挟む隙を与えず、そして拒否の言葉を許さない言い回しで、翡翠はあっさりと言い包めた。
「………はぃ…」
抱え上げられていては、走って逃げることも叶わない。軽く抵抗を試みるも、翡翠にはあってないようなものらしかった。
…仕方なく観念し、は小さく肯定の返事を返したのだった。





「あの…その、私、あの時、本当に偶然翡翠さんを見かけて」
「ふむ」
茜色の空を背に、庭とは名ばかりの草むらをそわそわと忙しげに歩きながらが言う。
「だから…その、ちょっと、間が悪くて、そのために出かけたのに、先に翡翠さんに会っちゃって、声かけちゃって、順番がめちゃくちゃに」
「神子殿、落ち着きなさい。何を言いたいのかわからないよ」
縁側に浅く腰掛け、翡翠はそう言って微笑んだ。
「………!」
それを見て、の頬が染まる。一日の終わりを告げるやわらかな夕陽とのそれとが混じりあっているのを見て、翡翠は一層笑みを深くした。
「綺麗だね」
「え?あ、……はい…」
それを夕陽と思ったのだろう。もすぐに同意する。そしてその景色に見惚れそうになったのだろう、慌てて首を振ってこちらに向き直った。
「あの…その。今日って、翡翠さんのお誕生日…なんですよね?」
「……………誕生日?」
「はい。…え、違いましたか?」
不思議そうに口にした翡翠に、が大きな瞳を不安そうに泳がせる。旧暦がとか、数え方がとか、がぶつぶつと何事かを呟いていることに気付くまで、少し時間がかかった。
「……ああ、すまない。そうではないのだよ。ただ、」
「…ただ?」
「ただ………そうだね。長いこと、祝われたことなどなかったものだから」
何かを言って誤魔化そうとも思ったが、この少女の前ではそれすら無意味に感じた。だから、ありのままの真実を、なんでもないよと安心させるために告げたのだが。
「そんな!」
「………神子、殿?」
「誕生日を祝わないなんて、駄目です!誕生日は、この世に生まれてきてくれてありがとう、ってお祝いする日なんですよ!それを…だめですっ!」
縁側に腰掛けていた翡翠の前で、仁王立ちでそう言う。翡翠が呆気に取られていると、やがてすぐにしゅんとなってしまった。
「…だから、翡翠さんに何かお祝いしたくて、市に行こうとしたのに。翡翠さんが私を連れてきちゃったから、買えなかったじゃないですかー…」
言っていることがめちゃくちゃだ。自分を祝いたいのなら、この京で見つけられたことがまず幸運ではないのだろうか。
(……しかし)
そっぽを向いてしまったを見て、翡翠は純粋に不思議に思っていた。
この少女は、なぜこうまでまっすぐなのだろう。
…なぜこうまで、自分の心を惹きつけてやまないのだろう。
幾度も考えては見たものの、答えはどうしても見つからなくて。
そしてまた今日のように、自分の心を簡単に乱してしまう。
…こんなにも、愛おしく、かけがえのない。
(神子殿………)
君は何故、そうまで。
「ひゃっ!?…ひ、ひ、翡翠さんっ!?」
「…ん?なんだい……?」
「な、なんだい、じゃ、なくって、……」
そっとの首元へ、唇を寄せ、顔を埋めて囁いた翡翠に、が真っ赤になって言う。
「近い、です……」
「逃しはしないよ。」
ゆっくり距離をとろうとしたを後ろから強く抱きしめ、そのまま力を込めて引き上げる。
「きゃあっ」
翡翠の膝の上に抱き上げられ、は硬直したまま口をぱくぱくさせた。まるで、空気を求めている魚のようだ。
「…ふふ。悪戯が過ぎたかな。でもね、君がいけないのだよ、可愛い人」
ぎゅ、と。
更に力を込めて抱きしめ、そのまま耳を甘噛みする。
「ひ、ひす、い、さ……」
「何もいらない。…いらないから、どうか私の側にいておくれ。」
焦がれるように想うのは、狂おしいほどに切なくなるのは、愛おしいと感じるのは。
、君が欲しいよ。私の誕生日なのだから、いいだろう……?」

生まれてきてくれて、ありがとう?

それはこちらの台詞だよ。

そう、たった今、わかったよ。私は、


「君に会う為に、生まれて来た。」



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