「あーあ、明日までの課題、早く終わらせないといけないのになー……」
こもってばかりでははかどるものもはかどらない、とコンビニまで足を運んでみたものの、これが単なる逃避だということは本人が一番わかっていた。
「これでね?家にペットでもいれば、じゃれて気を紛らわしたりできるんだけどー…」
「……ニャー」
「そうそう猫とか……って、え?」
不意に聞こえた猫の声に、は足を止めた。…なんだか、頭上から聞こえたように思えたのだが。
「あれ?ん?」
「ニャ、ニャー!」
「……やっぱり、上?…って、わあ!」
通り道の公園の木の上、先の細い枝の部分に小さな猫が怯えたようにしがみついていた。
「お、落ちちゃう…!どうしよう、何か!」
クッションになるようなものを探すも、見えるところにそんなものはない。
応援を求めようとするも、目の届く範囲に人はいない。気ばかりが焦る。あんな高いところから落ちたら無事ではすまないだろうし、自分がうまくキャッチできる自信もない。
「…よし!」
仕方ない。
買ったばかりのお菓子の入った袋を木の根元に置き、は木の幹をよじ登り始めた。
「…っと!よし、もう少し……」
あと少し。手を伸ばせば、届く、その距離まで到達して。
は、驚かさないようにそっと声を掛けた。
「…大丈夫?怖がらなくていいよ。ほら、ゆっくり、こっちに来て…」
「にゃっ…、みゃっ!!」
しかし、怯えた猫はなかなかの元へは来ない。あと少しだというのに、…まどろっこしい。
「むー…もう少し、先に」

「危ない!!」

―――…え?」
警告の声が聞こえたのが先か、…バキィッ、という嫌な音が聞こえたのが先か。
それを考える間もなく、唐突に浮遊感に襲われ……鈍い衝撃を感じた次の瞬間、は意識を失った。





雨 夜 の 月 







ちゃん!目、覚めたんだって?大丈夫!?」
「中森さん、随分心配してたのよ」
――――…? 頭、痛い)
浮上してきた意識が、再び沈みそうになる。
それを無理やり引きずり出して、は今にも閉じそうになっていた瞼を再び開けた。
「…え、と。私、どうか、した?」
自分を覗き込んでいる青子に、は戸惑いの色を含んだ声で聞いた。
今寝ているのは、どう見てもいつものベッドではない。天井も床も壁も白く、脇にはカーテンがかかって隣とは仕切られている。…見えないが、床頭台、というやつが枕元にあるのかもしれない。間違いなく、ここは病院だ。
しかしは、何故今、自分がこんなところにいるのか、全く理解できなかった。何の気なしに頭に手をやると、髪の毛の感触の前に、なんだか布のようなものに触れる。
「あ、駄目だよ、まだ触っちゃ!…まだ、起きたばかりで混乱してるんだよね。大丈夫だよ、心配しなくても。猫ちゃんも飼い主のところに戻ったし!」
青子が、笑って言う。…その笑顔には、安心できるのに。それなのに。
(言ってる意味が…全くわからないよ…青子……)
混乱?何故私がそんな状態に陥るのだろう。
猫を、心配?何故だろう。私は別に、猫など飼っていないのに。

そもそも、なんで私はこんなところにいるの?

「あ、快斗来たよ!代わるね。じゃ、また明日お見舞いに来るから!」
「待っ、あお、」
声を出すのすら気だるい。声が言葉になりきる前に、青子と紅子は揃って病室から姿を消してしまった。
「…!!大丈夫か!?」
「………快斗」
血相を変えて飛び込んできた快斗にも、は疑問を覚えた。…何で、彼は、
(……やだ…………)
言いようのない不安がを襲う。
わからないことが多すぎる。自分が今、何故この状況にいるのかもわからない。それに、何で、快斗が、
「心配したけど、傷自体はそんな大した事ないって。良かった」
木の上から落ちたと聞いた時は、本当に心臓が止まるかと思うほど驚いたが、今見る限りでは大丈夫そうだ。……ほっと安堵すると同時に、言いようのない不安が快斗を襲った。
…何かが、違う。
「…?どこか、痛……」
「痛くない。痛くないよ。痛くないけど、……ねえ、快斗。どしたの?青子たち、もう帰ったよ?」
「………え?」
「なんでまだ、いるの?青子たち心配するから、早く行きなよ」
…?」
おかしい。明らかに、今のは、おかしい。……そう、まるで。
ごくり、とつばを飲み込んでから、快斗は唐突に切り出した。
「…あー…そういえば、明日、またキッドが出るらしいぜ。」
(キッド)
その名には、覚えがある。知っている話題に、はほっと息をついた。
「…へー。青子のお父さん、大変だね。手を焼いてるみたいだし。……キッド、か。一度くらい、会ってみたいね」

一 度 ク ラ イ 、 会 ッ テ ミ タ イ ネ

―――――――――……!!」
ぽつり、ぽつり、と。
紡ぎだされたの言葉に、快斗は、息を呑んだ。
…ふ、ふざけてるわけじゃ、ない、よな…?」
みっともないくらいに、震える、声。
「…え?なにが?」
…自分は、呼吸の仕方を忘れてしまったのだろうか。息が詰まって、言葉も詰まって、…ああ、視界が真っ暗になるって言うのはこういうことか、と変に納得しながら、ともすれば失いそうになる意識を必死に繋ぎとめた。
「…長居して、悪かった。クラスの男子代表でさ、オレが見舞いに来ることになってたんだ。変に思ったらゴメンな」
「あ、なんだ。そっか、そうだよね」
ここに来て、はようやく安堵したように笑みを浮かべた。
「おかしいと思ったんだよ。なんで快斗がわざわざ来てるんだろうって。まるで彼氏みたいじゃない?びっくりしちゃった」
ふふふ、と笑って言われる。壊れそうな何かを抱えながら、快斗は必死に笑顔を浮かべた。ポーカーフェイス。こんなときこそ、使わなければならない技だ。
「オゥ。じゃ、またな」
「うん、ばいばい」
病室を出る。……そのまま、ずるずると壁に沿って床にへたりこむと、快斗は膝を抱え込んだ。
「……きっついって、コレは。」
ひとしきりそうしてから、立ち上がる。…の主治医の元へ、行かなければ。
………」

お前の心は、今、どこに在るんだ?



----------------------------------------------------------------