ちゃん、退院おめでとー!」
「もう大丈夫なのですか?」
「うん。傷自体は、大したことないからって。」
(ゆっくり、日常生活に馴染んでいきなさい)
担当してくれた医師の声が、脳内で反芻される。
(そうすれば、自ずと思い出すだろう。…君が、何を忘れてしまったのかを)
何かを忘れたまま、今までと同じに戻ることなどありえない。
何かを失ったままの自分でいることは、自分自身が耐えられない。
「…さん。今日は、黒羽くんは所用で来られないんだ。代わりといっては何だけど、僕と…中森さんが、クラス代表で来たというわけなんだ」
「……?うん、ありがとう」
何故、そんなに申し訳ないような言い方をするのだろう。そう不思議に思っていると、不意に胸のどこかが疼いた。…かさぶたの上を、撫でられたかのような感触。
「迎えの車を呼んであるんだ。行こう」
「青子も、おうちまで一緒に行くからね!」
それに気付きながらも、白馬は何も言わずにドアを開けてをエスコートした。…今の自分にできることの、なんとちっぽけなことだろう…と自嘲しながら。





雨 夜 の 月 3







「…変な、感じだな。」
自分の部屋すら、違和感を感じる。…記憶を失う前と今、数ヶ月間のブランクは、部屋にまで影響を及ぼしていたらしい。どことなく、自分がいる場所ではないような…そんなよそよそしさを感じてしまう。
「あ……」
そうだ。自分には、日記をつける習慣があった。
ほんの数ヶ月で、その習慣を破棄したとは考えにくい。確実に、記憶を取り戻すための貴重な材料になるはず…そう思い、急ぎ記憶にある引き出しを開けた。
…手にとって、きょとんとして呟く。
「……鍵、付き?」
自分は確か、大学ノートに日記をつけていたはずだ。市販の、何の変哲もないノートに。…いつの間に、こんな物々しいものへと変えたのだろう。中を見ればその謎も解けるのだろうが、肝心の鍵の場所が今の自分にはわからない。
「…………ふう。」
ため息をついて、日記を引き出しに戻す。毎日つけていたわけではないし、事細かに書いていたわけでもない。それでも、今の自分には最も近道だと思ったのだが。
…だが、何故。
何故、わざわざ鍵付きの日記に変える必要があったのだろう。
(誰かに…見られた?)
でも、誰に?
兄弟はいないし、両親が勝手に覗くなど考えられない。遊びに来た誰かに勝手に見られたのか…とも思ったが、生憎そんな不躾な友人はいない。…そして、更に気がかりなことがもうひとつあった。
「まだ…新しいよね?これ」
そっと手を伸ばし、触れる。汚れ一つ見られない、新品の網戸。そうそう取り替えるような代物ではない。…この網戸を換えなければならないような…そんな何かが、あったのだ。
(……みんなの態度、おかしいよ。)
私が忘れているのは、ちょっとやそっとの何かではない。…もっと大きな、何かなのだ。
(私は……)
私は、何を忘れているの?





「…………。」
その様子を雑居ビルから見ていた快斗が、黙って立ち上がる。その身にはまだ、白装束をまとったままだ。
仕事のために白馬に迎えに行かせたが、それで良かったかもしれない。…今のは、どうしようもなく不安定だ。
(…網戸を壊したのはオレ。日記を鍵つきにしたのも、オレが勝手に読んだからだ。)
全ての理由は、自分に在る。つまり、には、全ての理由がわからない。
「……どうしたら、いいんだろうな。」
が、理由もわからず自責の念に駆られるのは時間の問題だろう。
…自分が、そんなに、いつまで触れずにいられるのか。
(それも…時間の問題、か。)
そのとき、はどうするのだろう。突き飛ばすか、叫ぶか、…それとも。
(…それとも?)
IQばかり高くても、こんなときに何の役にも立たない。
自分の無力さに吐き気を覚えながら、快斗はその場を飛び去った。





「…あれ?これ…」
数ヶ月の間に、何があったのか。文字通り部屋の中で自分探しをしていたは、見覚えのないファイルを手に小さく呟いた。
「怪盗キッドの…切り抜き…?」
自分は、そんなにこの怪盗のファンだっただろうか。日付を見てみると、ある時期から突然集め始めていることがわかった。どんな小さな記事でも、丁寧に切り抜いてある。なんだか赤線を引いて、「要注意!」なんて書いてあるところもあった。…そして。
いくつかの語尾に見られるのは、ハートマーク。
途端、先ほど感じた疼きが再び胸を支配した。それも、先ほどの比ではない。もっと強く、そう…かさぶたが剥がれ落ち、その傷跡を直接触られたような疼き。
興味、好奇心……それらとはもっと別な、何かの感情。それが何なのかわからないほど、は幼くはなかった。だがそれを認めることは、自分を混乱の渦へと放り込むこと。…認めたくはない、感情。
「そんな…どうして……!」
ファイルを取り落とし、口を押さえる。床にへたりこむと、はそのままぎゅっと目を瞑った。信じられない事実を、受け入れがたいと全身が訴えているのだ。

私…どうして、怪盗キッドが“好き”なの……?



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