動かないで待っているのは、性に合わない。
(そう思ったのは、いつだっただろう)
月が綺麗な晩だったような気がする。
…何かを思い出そうとすると、かなりの頻度で、一緒に月が出てくる。自分と月の間、宵闇の中に佇む影が見えるような気がするのだが、そこだけは霧がかかかったようにぼやけてしまっている。
「紅子ちゃん」
昼休みが、中盤を過ぎたあたりでは紅子に声をかけた。
「……さん。どうかしたの?」
ゆっくりと振り返った、その瞳は。
「来たのね」と。
…そう、語っているように感じたのは気のせいだろうか?





雨 夜 の 月 4







「紅子ちゃん…あ、あのね、変だって思わないでほしいんだけど…紅子ちゃん、キッドの正体って知ってる?」
人気のない、屋上の上では恐る恐る切り出した。
…長い髪を風に躍らせながら、紅子はふい、と視線をそらす。
「…何で、私が知ってるって思うの?」
「何とな…く……」
言えない。
まさか、“キッドに恋していたかもしれないの”なんて。
…あの記事を見たときに抱いた感情は、「ファン」以上のものだった。だが自分は、テレビの向こうや紙面の上の人物に、本気で恋焦がれるようなタイプではない。つまり、「キッドの正体の人」を好きだったのではないか。…そう、結論を出したのだが。
(現実的じゃない…)
自分のことなのに、何もかも自信が持てない。挙句、人に頼ろうとしている。どうしようもなく惨めで、じんわりと涙がにじんできた。
「……本来、人間は『頭』と『心』なんて、分かれてるわけじゃないわ」
「………え?」
泣いていることに触れないのは、彼女なりの優しさだ。もそれはわかっていたので、制服の袖で涙を拭うと、黙って先を促した。
「『胸がどきどきする』のも、『心が痛い』のも、全ては脳が支配しているせい。具体的に言えば、大脳の……まあ、それはいいわ。つまり、脳からその部分の記憶が抜け落ちれば、同時にその部分の心も無くすはずよ。どきどきしたことも、辛かったことも。でも……」
髪をかきあげ、へと視線を戻すと、紅子は小さく微笑んで言った。
「あなたを見ていると、脳は忘れても心は憶えている…なんて馬鹿げた話も、信じてみたくなるわ。大丈夫、きっと見つかるから。」
無くしてしまった、記憶の欠片。
「…ありがとう、紅子ちゃん。」
問いの答えは、もらっていない。今紅子に言われた意味も、きっと自分は半分も理解できていないのだろう。…それでも、励ましてくれたことはわかったから。それだけわかれば、十分だ。
「ほら、次は移動教室だから、急がないと」
「え?あ、そっか!じゃあ私、先に戻ってるね!」
「ええ」
たたたっ、と走り去る背中を見送ってから、紅子は小さく呟いた。
「…良かったじゃない。望み、ありそうよ」
今更、彼の心を手に入れようとは思わない。
もはや、自分には手の届かないところへ行ってしまったから。
…だから、せめて。
勝手ではあるけれど、彼が悲しまないように、辛くないように。
「願わずには…いられない……」
たっ、と小走りに教室へ向かう。…このままここにいたら、魔力を失ってしまいそうだったから。
(案外、辛いものね)
…泣きたいときに泣けない、というものも。





「……会いたい。」
ベランダに蹲り、夜空を見上げる。…視線の先には、大きな月。
記憶の中で、自分と『誰か』を照らしているのは、日の光ではなく月の光。
(きっと私は、怪盗キッドに会っていた)
記憶ではない。昼間、紅子が言ってくれたように……『心』、そう呼ばれているもの。心が、叫んでいるのだ。

…怪盗キッドに会いたい、と。

見上げた月が、瞬間、翳る。
あっ、と思った次の瞬間には、目の前に人が降ってきていた。
「……お呼びですか、お嬢さん?」
「キッ…」
ド、と続けようとした矢先、すっと人差し指で唇を制される。
「お静かに。……宵闇を騒がせてしまい、申し訳ありません。しばしの間、かくまって頂けませんか」
けたたましいサイレンが遠くから聞こえてくる。ああ、追われているんだな、と気付いたが、不意にそこで疑問が生じた。
「……私が呼んだと、どうしてわかったの?」
「月が囁いてくれたのですよ。小鳥が私を慕って、可愛く囀っているとね」
「は、はあ……」
答えになっていないとは思ったが、今ここで押し問答をしても仕方がない。とりあえず中に入ってもらおうかと窓を開けた瞬間、脳内で声が響いた。

『…白ずくめの男?』
          『他に言い方はねーのかよ』


                   『…落とさないでね?』
      『おめーが重くなってなければな』

「……っ!」
頭を抱えて、座り込む。
「っ、どう、されたのですか?」
「頭…痛っ……!」
……違う。
痛いのは、頭じゃない。軋んでいるのは、脳じゃない。
(心、だ……!)
心配そうに覗き込む、蒼い瞳。シルクハットの影と、ぼやけた視界とではっきりと顔はわからないけれど。
「私…あなたをこの部屋に入れるの、初めてじゃ、ない」
驚いたように、瞳が大きく見開かれるのが見える。
「私…私、あなたのことを……」
…そこまで言いかけ、急速に意識が遠のいていく。
やばい、倒れる、そう思った次の瞬間、誰かの腕に支えられたような気がして……

そこで、の意識は途絶えた。




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