が思ったとおり、保障のない逢瀬が繰り返されることはなかった。
(春の夢…)
だったとしか、思えない。
名どころか顔すら知らない御簾の向こうの人物と再び言葉を交わすなど、水に映る月をとるようなものだ。あてもなく歩いていたため、再び彼の地を訪れることも叶わない。確かに覚えていることといえば、木蓮が綺麗に咲いていたということだけ。
(ゆるゆると)
刻が、過ぎてゆく。
あかねと言葉を交わすことも少なくなっていた。なんだかわからないが忙しいらしい。こちらに来てまだ一週間とたっていないはずだが、しっかり順応しているようだ。
藤姫も自分の扱いに困っているのが明白で、なんだか申し訳ない。こちらに手を煩わせるわけにはいかないから、ただひっそりと、気配を殺し、静かに過ごすのみだった。
食事を運ばれたとき以外、誰とも一言も言葉を交わさない日が幾ばくか続き、木蓮の人のことも記憶から消えようとしていたとき。
…文が、届いた。
「え、私に?」
意味が分からずに、きょとんとして聞き返す。身の回りの世話をしてくれている女房は、ただ微笑んで頷いた。
「誰が…」
この時代に手紙をくれるような人物なんてあかねくらいしか思い浮かばない。が、それどころではないはずだ。
手渡されたのは、手紙だけではなかった。…それを見て、は目を丸くした。言葉すら出ないほどに、驚いたのだ。
添えられていたのは、木蓮の花。共に届いたのは、一目ではいくつあるのかわからない程の着物。
「……これ、」
「お名前は御座いません。それでは、御前を失礼します」
そう言って下がられては、何も聞けない。名前はなくとも、送り主はわかっているだろうに。
習字の手本のような手紙を完全に読み解くなどには不可能だったが、かろうじて意味はとれた。
「…ええと、そんな服を着ずにこれを着なさい、っていうのと…忘れないで…?」
疑問だらけではあったが、わかったことはある。この着物は自分がもらって良いらしいこと、そして差し出し主は、…木蓮の人だ、ということ。
(知ってる…)
私が、京の人間じゃないことを。
ここに文を寄越したということは、そういうこと。
だから、私があんな服装だったのに何も言わなかったんだ。
(不思議な人…)
それでもの頭の中には、木蓮の花が咲く庭が鮮やかに甦っていた。


はなれゆく記憶を

    繋ぎとめたのは、

      暗紅紫色の一輪の花





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